お知らせ
これがお墓?!大絶賛のハートの形
地域発展に力を尽くした父
信濃境駅前の小さな店から始まって、諏訪~北巨摩エリアに多い時は数店舗も経営する商売人だった故平出郁夫さん。
時流にのって思い切りよく業態を変えながら事業を発展させました。
そして、その柔軟さと気概で地域の発展のために尽した人でした。
また、資金を出すだけではなく、自ら構想を練り、企画することにも積極的な人で、
富士見町井戸尻遺跡そばの「井戸尻こども村」、小淵沢「矢の堂奉賛会」の三十三番観音事業の一貫で小淵沢IC前に建立した大観音像などはその代表的なものです。
「自分のことよりまず地域のことを考える人でした」と妻香代子さんは回想します。
お墓に対する考え方もしかりでした。
昭和35年に先祖のお墓を葛窪から信濃境に改葬しましたが、自らが入るための整備は生前には行いませんでした。
その代わり、父が昭和15年に建てた墓石を大切にし、それに見合うよう自分の死後に自然石で墓誌を建てて先祖を供養するよう伝え残していたのです。
息子さんたちはその遺志をしっかりと受け継ぎ、このたび郁夫さんの納骨にあたり父念願の墓誌建立と外柵改修にのりだしたのでした。
「お墓は先祖のために子が建てるもの。生きているうちのエネルギーは人のためにつかうもの。」
家族の信頼関係をも築き上げた郁夫さんの声が聞こえてくるようです。
お地蔵様に受け継がれた想い
甲斐駒ケ岳、八ヶ岳を一望する小高い共同墓地の南端区画にある小池家のお墓。
歴代の供養塔群の真ん中に、お地蔵様とみられる石仏が鎮座します。
「このお地蔵様がご本尊だと祖父から言われてきました。」と、一茂さん。
長い年月をかけた石独特の風合いと表情が、なんとも味わい深いです。
小池家は家系図によると治承年間(1177年頃)から34代続く家。
このたび母の13回忌に合わせ、父の50回忌が近いこともあり、お墓の改修を決めました。
「父が亡くなったのは私が高校生のとき。
祖父からは父の代わりとしていろいろなことを教えてもらいました。お墓のことも。
一番古い石塔はさざれ石という固くて風化しにくい石で、
小さなお地蔵がいくつもあるが、これは六地蔵のなごり…など。
そういうことを教わる中で、自然に自分がゆくゆく守っていくべきお墓なんだという意識がそだっていきました」。
祖父母と両親を送り、それぞれの先祖の立ち日には家族でお墓参りに行くのが小池家の習慣となりました。
「父と祖父の命日がある11月のお参りは景色もきれいで、楽しみです」と、妻の澄子さんも語ります。
取材の日は長男正通さんも休日。
ご家族でのお墓参りに同行させていただくことができました。
「お墓がきれいになってお参りしやすくなったから、このあとは楽ですね」と正通さん。
親子でお墓守りの了解がとれているご様子がとても自然でした。
名馬たちのやすらぎの場
養老馬、休養馬のための預託牧場が清里高原にあります。
富士山から南アルプスを大パノラマで眺める広々とした牧場です。
八ヶ岳の冷涼な気候が馬の暮らしにも合う、とオーナーの大橋さん。
厩舎の中は馬の足にやさしいクッション性の高いゴムシートを敷き詰め、あたたかいかんなくずのお布団も。窓は首からすっぽり顔を出せるよう馬の顔型の首だし窓を設けています。
その牧場の看板兼慰霊の石碑が建てられました。ちょうど蹄の形にも見える、ユニークなデザイン。
くっきりとした黒御影が青空の下の厩舎に映えています。
わすれな草の花への想い
仏様の功徳でご先祖が成仏できますように、という仏塔としてのお墓本来の意味を文字に込めた「南無釈迦牟尼佛」(※なむしゃかむにぶつ 曹洞宗の本尊の名称)墓石正面。
そして、大切なお骨を納める納骨堂のふた石には「ありがとう」のメッセージと〇〇さんの好きなわすれな草を彫刻しました。
「ありがとうの気持ちって、普段なかなか言葉にできないでしょう?でも忘れちゃいけないし、形に表さないと伝わらないですよね。
仏様、お父さんお母さん、ありがとうと、お墓に行けば素直に気持ちが表せるように、このデザインにしました。」
「有り難う」に希望を込めて
Sさんが夫・Yさんと結婚したのはYさんが亡くなるわずか1年前でした。
病気や生き方と向き合う中で、お墓をどうするかの話も出ました。「主人はお墓はいらない、山でも海でも撒いてくれ、と言ったんです。葬式もしなくていい、と。それも周りへの配慮から来たものだったのでしょうけど、私は違和感を感じました。結婚するとき、彼にとって再婚相手の私をむこうの家族はとても喜んでくれました。そんな人たちに対して、本人が要らないと言ったからって、私が何もしないでいるようなことは申し訳ないと思ったんです。それに子どももいない私たちが、一緒にいたことを形として残せないのは寂しい。だからお墓は必要、と主人に伝えました。そしたら、がぜんやる気になってデザインまで考えてくれたんです」。
「お墓ができた時、ものすごく安心したのを覚えています。沖縄の旅先で亡くなったから、連れて帰るところから葬儀までそれは大変でした。でもお墓ができて、少しずつ別の形で主人と対話できるようになりました。俺があの世に行っても妻は笑ってるって安心させたい、自慢させたい。だから仕事もやめないでよかった。これからは仕事も含めて自分のやりたいことは一人であることを気にせずなんでもやります。一人を楽しんじゃおうって」。
今、Sさんは企業の管理職として精力的に仕事をし、出張も多い毎日です。
そんな中仕事帰りにおいしいお店に立ち寄ったり、友人や妹たちと旅行に行ったりすることも楽しみの一つ。
また、最近覚えたバルーンアートで地元白州町の文化祭をはじめ、様々なイベント会場に出向くようになりました。子どもたちの笑顔を見ることも張り合いだとのこと。
定年後は地域のお年寄りのための移動販売をすることが夢。実はそのアイディアも幸雄さんが新聞で見つけた記事がきっかけでした。
「おまえ、将来こういうことすればいいよ、人の役にたつこと」。
「人に楽しんでもらいたい。そのためにはまず自分が楽しむ。『有り難う』と自分たちの名前が彫られたお墓をお参りするたびに、気持ちが新たになるんです」。
Always with you に励まされて
八ヶ岳と南アルプスがよく見える墓地に建った、淡いピンクの石のお墓
真ん中にぽっこりとした空間があり、そこにちょうど半球の花立が乗っているデザイン。
風や波が流れているようなイメージで、やわらかくてやさしい感じがあふれています。
碑石の下の基礎、生コンがまだ乾かないうちに手形をつけました。
石塔を建てれば見えなくなるけど、二人の孫の手、いつでもあるからね。
次女さんの想い。
「今まで私も仕事や趣味に忙しくして、お墓のことなんか考えたこともありませんでした。
自分は独身ですし、今はやりの撒骨とか、宇宙葬などに漠然と関心をもっていたくらいでした。
でもこうして母が亡くなってみて、母が生きていた証を形で残したい、と強く思うようになりました。
お墓を建てるにあたって、父や姉ととてもたくさんの話し合いをしました。
母の生き方について、遺骨の納め方について、お墓の守り方について・・・。
それぞれ離れて暮らしている私たち家族が、母の死をきっかけに一家団欒してお互いを思いあう気持ちが芽生えました。
そして、母をどう祀れば私たち自身が癒されるか、その方法をとことん考えました。
こんなステキな宿題を残してくれた母に感謝しています。
お墓は残された人間が考えるものなんだなぁと実感しました。」
「Always with you」と英語のメッセージを入れようと提案したのは長女さん。
「母は英語が好きでいつも勉強をしていました。お友達と英語サークルを作って教えていたりもしていました。母が亡くなったとき、私もいろんな方から『お母さんはいつもそばにいますよ』と声をかけていただいたことでとても励まされたので、英語で『いつもそばにいます』という意味のメッセージを彫りました」
「八ヶ岳は母の田舎の信州からも、私や父の住む関西からも友人の多い東京や静岡からもちょうど集いやすいところにあります。
普段は私がみますし、お墓参りがてら父や妹が孫(姪や甥)に会える機会も増えるでしょう。
お墓をつくって、家族がひとつになれる場所ができて、本当によかったと思います。」