お知らせ

2018年11月23日

わすれな草の花への想い

仏様の功徳でご先祖が成仏できますように、という仏塔としてのお墓本来の意味を文字に込めた「南無釈迦牟尼佛」(※なむしゃかむにぶつ 曹洞宗の本尊の名称)墓石正面。
そして、大切なお骨を納める納骨堂のふた石には「ありがとう」のメッセージと〇〇さんの好きなわすれな草を彫刻しました。

「ありがとうの気持ちって、普段なかなか言葉にできないでしょう?でも忘れちゃいけないし、形に表さないと伝わらないですよね。
仏様、お父さんお母さん、ありがとうと、お墓に行けば素直に気持ちが表せるように、このデザインにしました。」

2018年3月13日

「有り難う」に希望を込めて

Sさんが夫・Yさんと結婚したのはYさんが亡くなるわずか1年前でした。
病気や生き方と向き合う中で、お墓をどうするかの話も出ました。「主人はお墓はいらない、山でも海でも撒いてくれ、と言ったんです。葬式もしなくていい、と。それも周りへの配慮から来たものだったのでしょうけど、私は違和感を感じました。結婚するとき、彼にとって再婚相手の私をむこうの家族はとても喜んでくれました。そんな人たちに対して、本人が要らないと言ったからって、私が何もしないでいるようなことは申し訳ないと思ったんです。それに子どももいない私たちが、一緒にいたことを形として残せないのは寂しい。だからお墓は必要、と主人に伝えました。そしたら、がぜんやる気になってデザインまで考えてくれたんです」。

 
「お墓ができた時、ものすごく安心したのを覚えています。沖縄の旅先で亡くなったから、連れて帰るところから葬儀までそれは大変でした。でもお墓ができて、少しずつ別の形で主人と対話できるようになりました。俺があの世に行っても妻は笑ってるって安心させたい、自慢させたい。だから仕事もやめないでよかった。これからは仕事も含めて自分のやりたいことは一人であることを気にせずなんでもやります。一人を楽しんじゃおうって」。

 
今、Sさんは企業の管理職として精力的に仕事をし、出張も多い毎日です。
そんな中仕事帰りにおいしいお店に立ち寄ったり、友人や妹たちと旅行に行ったりすることも楽しみの一つ。
また、最近覚えたバルーンアートで地元白州町の文化祭をはじめ、様々なイベント会場に出向くようになりました。子どもたちの笑顔を見ることも張り合いだとのこと。
定年後は地域のお年寄りのための移動販売をすることが夢。実はそのアイディアも幸雄さんが新聞で見つけた記事がきっかけでした。
「おまえ、将来こういうことすればいいよ、人の役にたつこと」。

「人に楽しんでもらいたい。そのためにはまず自分が楽しむ。『有り難う』と自分たちの名前が彫られたお墓をお参りするたびに、気持ちが新たになるんです」。

2017年4月12日

Always with you に励まされて

八ヶ岳と南アルプスがよく見える墓地に建った、淡いピンクの石のお墓
真ん中にぽっこりとした空間があり、そこにちょうど半球の花立が乗っているデザイン。
風や波が流れているようなイメージで、やわらかくてやさしい感じがあふれています。
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碑石の下の基礎、生コンがまだ乾かないうちに手形をつけました。
石塔を建てれば見えなくなるけど、二人の孫の手、いつでもあるからね。
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次女さんの想い。
「今まで私も仕事や趣味に忙しくして、お墓のことなんか考えたこともありませんでした。
自分は独身ですし、今はやりの撒骨とか、宇宙葬などに漠然と関心をもっていたくらいでした。
でもこうして母が亡くなってみて、母が生きていた証を形で残したい、と強く思うようになりました。
 
お墓を建てるにあたって、父や姉ととてもたくさんの話し合いをしました。
母の生き方について、遺骨の納め方について、お墓の守り方について・・・。
それぞれ離れて暮らしている私たち家族が、母の死をきっかけに一家団欒してお互いを思いあう気持ちが芽生えました。
そして、母をどう祀れば私たち自身が癒されるか、その方法をとことん考えました。
こんなステキな宿題を残してくれた母に感謝しています。
 
お墓は残された人間が考えるものなんだなぁと実感しました。」
 
「Always with you」と英語のメッセージを入れようと提案したのは長女さん。
「母は英語が好きでいつも勉強をしていました。お友達と英語サークルを作って教えていたりもしていました。母が亡くなったとき、私もいろんな方から『お母さんはいつもそばにいますよ』と声をかけていただいたことでとても励まされたので、英語で『いつもそばにいます』という意味のメッセージを彫りました」
 
「八ヶ岳は母の田舎の信州からも、私や父の住む関西からも友人の多い東京や静岡からもちょうど集いやすいところにあります。
普段は私がみますし、お墓参りがてら父や妹が孫(姪や甥)に会える機会も増えるでしょう。
お墓をつくって、家族がひとつになれる場所ができて、本当によかったと思います。」

2017年9月15日

「無」を自然石に込めて

古い街道沿いにひっそりとたたずむ石仏のような金子家のお墓。
後ろには大きな桜の木、その先には南アルプスの稜線が見えます。
ここは水の里、全国の道百選でも知られる白州町台ケ原、龍福寺というお寺の裏山にある墓地の一画。
本碑も台座も花立もすべて八ヶ岳の地石。
「無」の一文字が自然のすべてを抱きかかえているような、安らぎを与えてくれます。
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金子君子さんの亡き夫紀久雄さんは水墨画の作家でした。
百貨店の美術館担当、広告代理店という職場にいながら自らも作品づくりに魂をそそぎました。
定年後小淵沢に移住。白州町台ヶ原の金精軒ギャラリーで毎夏開催される「街道に集う作家」展に出品し続けました。
富士山や甲斐駒ケ岳の姿をダイナミックに力強く描いたその画風は見る人に躍動感と情熱を与えてくれます。
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畳1~2帖分もの大きな作品が多く、台ケ原の龍福寺はじめ数々の寺に襖絵も寄進しています。
「山を描くことに心血を注いできた人でした。お酒が大好きでね、それで膵臓をやられちゃったんですけど。
いつもお酒片手に人懐こく笑ってました。亡くなったのは急でしたが、本人は幸せだったんじゃないでしょうか。
大好きな絵とお酒に囲まれて」
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 3回忌になる今年、君子さんはご縁のある龍福寺の墓地に自然石のお墓を建てることにしました。
「移住する前に住んでいた横浜にも墓地は用意してあったんですけど、
やっぱり好きで移住したここ(八ヶ岳)で眠らせてあげたいから」。

 
正面に彫った「無」の字は八ヶ岳で交流を深めた書家・塩野谷博山氏に提供してもらいました。
博山さん曰く「無とは何もないことであり、すべてあること。この世にあるものは仮の姿、目に見えないものこそ意味がある」。
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「磨かれたピカピカのお石塔ではなく、素朴な自然石が好き」という君子さん。
「あるがままの姿に全てを備えた「無」の字を彫ることで、いろんなことを自然に受け入れていけそう。
お父さんがいつもここにいてくれるような気がします」
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2017年3月30日

かわいい観音さまがお家を見守ります

代々の古いお石塔をきれいに並べ直すことになったK家。

(ビフォー)
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(アフター)
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このお墓にこれから入る人はもういないかもしれないけど
これまでのご先祖さまをちゃんと祀りたい、見守ってほしい、という願いを込めて
このたび代々墓として観音さまを建てることになりました。
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愛らしい表情の観音さま。
こんなお墓もアリです♡
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2017年2月26日

いつも誰かが訪れる場所へ

富士山のふもとに位置する冨士霊園に、一見ミニチュアの丘のように見える一画があります。自然石で囲まれたスペースの真ん中がこんもりとふくらみ、芝が生えています。後ろは自然石積みの石壁、近くの緑地帯からの木々の枝もさりげなく視界に入ってきます。これが一般社団法人「テラ」の運営するお墓、その名も「清風苑」。まさに自然の風や緑が感じられる一画です。
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「後ろの石積みはこの墓所を買う前からあったものですが、一目で気に入ってこの雰囲気を活かしたお墓にしたいと思いました。人工的な形じゃないほうがいい、むしろ自然石がぽんと一つ座っているような。そんな感覚がわかる石屋さんと一緒に作りたいと思いました」コンセプトのついてそう語るのはテラの代表理事・山下證善さん。浄土真宗慧光寺の住職でもあります。

「老・病・死」の過程の中で必要なコミュニティづくりを事業の柱とする(一社)テラ。地域在宅医療と連携した高齢者のシェアハウス運営や自分らしい葬儀の生前プロデュースなどがその代表的な例です。そしてこのたび宗派問わず縁のあった人がだれでも入れる、会員制の永代供養墓として「清風苑」が誕生しました。
「死は誰にでも訪れるもの。みんながお互いを思いやる気持ちを持ち、関係を深めることで、老・病・死の不安や恐怖が少しでも和らげればいいですよね。お墓にピクニックやお花見に行ったりもしたい。そういえば、この区画と出会ったのも、ピクニックがてら霊園を見学しているときでした(笑)。ここに来ればみんな温かい気持ちになれる、そんな場所にしたいです。そんな願いもあって、お墓にはあえて管理が必要な芝をはりました。『草が伸びてないかな、お花は枯れてないかな』そんな風にいつも誰かが気にかけて、お参りの足が絶えない場所。自分の身内だけじゃなく同じ思いでここに入った仲間の分もお参りしてあげられるような関係性を生きているうちからつくりたい」
 
10月。すがすがしい秋晴れの中、お墓の開眼式が行われました。集まったのは最初に「清風苑」に入ると決めた人10組。工事の最後の仕上げとして、みんなで順番に芝をはりました。「お墓づくりの一部に参加したという意識がめばえてきました。みんな口をそろえて『これで安心した』と言ってくれます。「いつも誰かが集う場所―清風苑」。四季を楽しむ会員みんなの憩いの場です。
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18年がかりの大事業 西茅野の躍進

JR中央線茅野駅から南へ1.5km、一級河川宮川に隣接する西茅野住宅地。
古くから天然寒天づくりや養蚕、稲作が盛んなこの地域は、一方で地域の中央を流れる麻浸川の氾濫がたびたび起こったり、茅野市街地へのアクセスが不便だったりして、土地整備が求められていました。
 
坂室バイパスの建設、麻浸川の改修、道路整備、公園づくりなどの事業が行われ、平成10年の着手から18年をかけてこのたびようやく完成したのです。
 
市街地へ出やすく、安全な住宅地に、多くの人が行き交い、子供たちの声が飛ぶ・・・。そんな西茅野がさらに躍進発展することを願って、記念碑が建立されました。

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碑石高さ2.3m、幅1.4m、石積みからの高さは3mにもなる立派な記念碑には、事業組合理事長五味政義氏はじめ、事業にかかわった多くの人と住民のみなさん、そして周辺地域の人々すべての想いを集約して、堂々と「躍進」の文字が刻まれています。

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2016年8月1日

戦後七十年平和への想い

平成27年は戦後70年の節目の年でした。
昨年から今年にかけて平和について考えさせられる機会が多いと感じます。
お墓づくりに平和への特別な想いをこめた人をご紹介します。

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14才で満州開拓少年義勇隊員、敗戦後シベリアへ抑留。飢えや病気で仲間を多数失うも、奇跡的にふるさとに帰ることができました。東京でそば屋を営業していた兄を手伝い、その後独立します。これが「10年独立の夢」をかかげて従業員を育てるそば屋チェーン「さか本」の始まりでした。茅野出身のかつ子さんと二人三脚で店と家庭をつくりあげ、まもなく開店結婚65周年を迎えます。

ふるさとを愛する守さんは両親への感謝の気持ちを忘れたことはありません。
今年、両親の眠るふるさと烏帽子のお墓の改修にのりだします。
そして両親への感謝と平和の幸せを想い、記念碑を墓地内に建てました。

改修前
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改修後
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改修前
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改修後
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記念碑には小さい頃から書がうまかった、と恩師が太鼓判をおした直筆の詩を彫り、両親の写真陶板を貼り付けています。
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92才になったさんの変わらない謙虚さとひたむきさは、働くとは何か、先祖を敬うとは何か、そしてそれが平和にどうつながるかを戦争を知らない世代の私たちに伝えてくれます。

末永い「和」の想い

二つの石が重なるようにして立つお墓。正面には大きな「和」の一文字が力強く刻まれています。
そのわきには年代を重ねた自然石供養塔、反対側にはこのお墓の歴史を記した顕彰碑があります。

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施主平田馨さんはテレビ局のプロデューサーとして活躍していましたが、番組制作の仕事で偶然、自らの家系について知ることとなりました。
平田家は桃山時代を起源とする刀剣金具師で、徳川幕府のお抱え工として、また維新後は世界的に評価の高い七宝技術を取り入れた勲章を作るという、格の高い職人家系だったのです。
「西洋好きでハイカラだった英語教師の両親からは先祖の功績について教わることがありませんでしたが、偶然文献で自らのルーツを知り、非常に誇らしく思いました。」

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「と同時に、その末裔として先祖の墓の管理をきちんとしておかなくては、という想いがつよくなっていきました。
妻に先立たれた私でしたが、縁あって山梨・小淵沢で再婚。暖かい家族に迎えられ、第二の人生をスタートすることができました。
他人なのに本当に心のやさしい人たちばかり・・・。
私の心は決まりました。
墓を八ヶ岳、南アルプスが望める風光明美な小淵沢へ移そうと。
再婚した妻もご主人に先立たれた人でした。
せっかくのご縁を大切に、このお墓を2つの家系が一緒になる場所の象徴として建てようと思ったのです。
新しい息子夫婦や孫たちも、みんなが賛成してくれました。」
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正面の『和』の字はその息子さんが書いたものです。
このたび亡くなったお父さんと早世した男の子のお骨も、このお墓に移すことになりました。
「娘たちにとっても、手を合わせる気持ちを表す場所ができて、ありがたく思っています」と息子さん。
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家族みんなが心安らかになれる場所。
二つの石の重なりは、二つの家系の融合のしるしでもあり、過去と未来のつながりの象徴でもあります。
「和」の心をもって強い絆がこれからも末永く続いていくことを願った両家のお墓です。
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2015年12月17日

自然石のもと大地へ還す

松林の間から富士山と南アルプスを拝む墓地に、どっしりとした自然石のお墓ができました。
「岩そのままの形で、できれば八ヶ岳の石がいい」強い思いを持ってお墓づくりにあたったKさん夫妻。
「本籍も富士見に移しました。自宅の近くにお墓を持て、本当の意味で終の棲家ができたと思います。」

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Kさん夫妻には若くしてこの世を去った息子さんがいました。
お墓を建てるにあたって、実家のお墓であずかってもらっていた息子さんの遺骨を自分たちのお墓へきちんと納めたいという思いもありました。

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「この地に住んでいて思うことがあります。それは、人が地域の一部となって暮らしているということ。この部落には神明社という神社がありますが、住民は自動的にそこの氏子なんです。個人の宗旨宗派とは関係なく、地域の慣習としてその神社にお参りする。山や川、森のすべてに神様がいる、と考える日本人の民族的なものが色濃く残っているんですね。私は今ストレスなく田畑をたがやして暮らしている。お墓もすぐ近くに持てた。今でこそ居住地の近くにお墓があるというのは全国的に少数派になりつつありますが、昔は当たり前のことでした。この地に根をおろして、何か大きなものに抱かれて守られている感じがします。」

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