お知らせ

2015年2月10日

定番の黒横型にカーブのアクセントを添えて

お父さんの歿後25年目にして建った、念願の代々墓です。もともと小淵沢の出身だったお父さんを、ふるさとに帰してあげることができました。

お墓といえば暗いイメージがあったというSさん。でも八ヶ岳の墓地を見てそのイメージが払しょくされました。親戚の紹介で、小淵沢駅から近いお寺の墓地を選びました。八ヶ岳を背景に、甲斐駒を望む明るい墓苑です。

山を望む明るい雰囲気に合うようにと、横型の石碑を希望。艶の美しいインド産の黒御影を選びました。彫刻面は、花や言葉などを入れることも考えましたが、最終的には飽きのこないオーソドックスな家名に落ち着きました。書体は、美しい形が好評の弊社自作行書にて。

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明るい家族の会話が飛び交う、お祝い色いっぱいのお開眼となりました。

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外柵は開放的なデザインに。階段部分に大きくアール加工を施し、デザイン性をもたせています。

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思わず手を合わせたくなる「南無」の碑

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伝統的な形と格式を子孫に

自らのために生前に建てるお墓は”寿陵”と言われ、縁起の良いお墓とされています。

このたびIさんが建てた功徳のある寿陵は、伝統と格式を感じさせる三段のお石塔と玉垣付の外柵です。

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桜の花散る明るいお墓

明るいグレーの細かい石目の白御影に、桜の花を半立体彫刻して、上品に仕上げました。

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妻の短歌を自然石歌碑に込めて

雨宮洋子さんの趣味のひとつは短歌を詠むこと。全国的な短歌の会「あさかげ会」の諏訪分会に参加し、日常の中で出会った小さな感動や思いを詠んでいます。昨年、洋子さんの詠んだ歌が「あさかげ会」全国大会で最優秀賞に選ばれました。
 
 夫の久利さんは洋子さんの功績をたたえたい、と歌碑を作ることを決意。ご自宅の庭にあった自然石のうち台石と碑石にちょうどいい形のものを自ら選びました。
 
 最優秀賞に選ばれた句は「炬燵辺に カタログの種子選びつつ 傘寿を土と共に生きなむ」。農業に長く携わり意気込みがにじみ出ているとの評価でした。苦労も楽しみも生活そのものとして受け入れてきた姿が伝わるすばらしい句です。

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「南無釈迦牟尼佛」できちんと

木村敏和さんの妻洋子さんは乳がんの宣告を受け、60代に入ったばかりで永遠の別れとなりました。9年の闘病生活をともに暮らした敏和さんでしたが、それでもたいしたことをしてあげられなかった心残りがあると振り返ります。「(妻は)あまり自分のことを話さないほうでね、病気の苦しみや死期のこと、死後の供養のこと・・・。でも自分ではいろいろ考えていたんじゃないかと後になって感じます。あいつはわりと信心深いほうでしたから、お墓づくりについてはきちんとしたかったと思います」

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墓石は茨城県産真壁青小目石。落ち着きのある上品な白御影。

 
子供は長女と長男の二人。長女晃子さんは母親の病気を知ってから東京での仕事をやめて甲府に帰ってきていましたが、亡くなった後はお墓づくりにあたって父親のサポートをしました。まず墓地探しに同行。花が好きで、フットワーク軽く行動派だったお母さんには少しにぎやかなところのほうがいい、と人通りの多い住宅街の一角にある寺墓地を勧めました。

そこは敏和さん自身が子供の頃遊び場として通い、前住職にお世話になった思い出の寺でもありました。晃子さんはまた、お墓はきちんとした形式で建てたいという父の想いを汲み取り、インターネットで「仏教墓塔研究会」を見つけました。

仏教墓塔研究会とは、寺院や石材店に向け、仏教各宗派の教えに沿った形式でのお墓の建て方の啓発と指導を行う会。主催は天台宗檀家総代でもある福原堂礎氏。毎年1月に石材店対象の研修会を行っており、当店も同会に参加しています。

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敷地内には赤土を入れ、塔婆立はお石塔の真後ろ、と細部にもこだわった形式。水子供養のための地蔵様は、「妻は望んでいたと思う」と配慮したもの。

結婚式は信州富士見の教会で友人たちだけを招いて挙げた、というロマンチックな思い出を持つ木村さん。子供が小さい頃は夫婦でコーヒー専門の喫茶店を経営、その後会社勤めを経て現在はタクシー運転手として、様々な人と接する仕事をしてきました。タクシーを利用する人にはお墓参りの人も多くいます。駅から墓地まで送り、墓参の間しばらく待って、また駅や家に送っていく。お墓参りの後のお客さんから「ほっとした」という声が聞かれ、表情も変わってくるのが印象的だと言います。
 
明るい初夏の日差しが照る6月初旬。木村家のお墓の開眼式と、洋子さんの3回忌法要が行われました。石塔の表字には曹洞宗のご本尊である「南無釈迦牟尼佛」の文字が堂々と刻まれています。建立以来毎日墓参をしている敏和さん。「ほっとした」という気持ちを今一番実感していることでしょう。

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甲府市長源寺墓地にて。

山々を望む将来の家

夫建次郎さんの定年退職後、東京から小淵沢へ移住してきた新倉さん夫妻。山をこよなく愛する建次郎さんは、昔からよく山に登るうちに八ヶ岳の開放的な山の眺望に魅せられ、移住を決意。甲斐駒ケ岳や八ヶ岳の眺望がみごとな里山の一角に定住用の住まいを設けました。「こういうところに骨をうずめられれば」と願うようになったのがお墓建立のきっかけ。建次郎ご夫妻が初代となる、いわゆる寿陵墓です。「もともとお墓をつくるつもりはなかったんです。骨は大好きな山のどこかに撒いてくれれば、と。でもお墓って残った側のよりどころだからね。それにこの墓地だとお墓に入っても山を見られる。」

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角をアールにしたやさしいフォルムの横型の石碑に満開の桜を彫刻。花びらがひらひらと舞う様子も動きがあり明るさが感じられます。建次郎さん自身が撮りためた花の写真を参考にデザインがおこされました。花を生けたまま枯れていく様子を見るのが忍びないので花立はつけず、代わりにブーケを置く台を設けました。お参りが終わればそのまま持ち帰りやすいスタイルです。「実家の墓は暗くてじめじめしたところにあるんです。お墓ってそういうものだと思ってた。だけどこのあたりのお墓はみんな広くて眺望のいいところに建ってる。その環境に似合うお墓にしようと思いました」

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お墓が仕上がった後起こった東日本大震災。新倉さんの死生観や生活観も大きく変わりました。「震災直後ろうそくの光でご飯食べたりしたでしょう。人間ぜいたくになりすぎたよね。自然の中で生きる幸せを感じたい。都会育ちの子供もここに呼ぶのが楽しみになった。墓はもうひとつの集いの場になりそうです。」桜の彫刻のお墓の前で子供たちの自然な笑顔がこぼれます。

高級石材で国内加工の蓮華座付墓石

決して裕福とはいえない農家だった牛山家の長男として生まれた保さん。「ピカピカの靴にあこがれた」という少年期を経て、中卒で上京しさまざまな職種を渡り歩いた後出会った不動産業で、持ち前のハングリー精神を発揮します。トップセールスの座から起業独立へ。バブル期の夢のような繁盛の後も堅実に業績をのばしていきました。保さんのモットーは「いいものには(お金を)かける」。ないときには何もしない。借りない、使わない。そのかわりあるときは惜しまず有効に使う。いいものや大切なものにかける。ご両親もお金に関しては「貧乏でも人から借金だけはするな」としっかり言いつけていたそうです。保さんはその信念のとおり、健全な資金繰りのもとかけるべきところにはきちんとお金をかけてきました。これと見込んだ土地の仕入れ、住宅や事務所建築、母の養護施設費用。「特別な家柄じゃないけどさ、『牛山保』の名に恥じないお金の使い方をしたい」。

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当然建墓もそう考え、良質の黒御影で国内加工の蓮華座付を選びました。「ある程度の予算が取れたからこの大きさにしたけどね、もし予算がなくてもデカいだけで安っぽいものは選ぶつもりはなかった。予算がないならできるまで待つか、小さくても良いものを。私の人生の集大成だから<本物>でしめくくりたい」

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保さんの母浪子さんの1周忌が今年8月に行われました。臨終のとき浪子さんは保さんの手を痛いほど握り「ありがとう」とつぶやいたそうです。働きづめの人生だった浪子さんが養護施設ですごした晩年の口癖は「今が一番幸せ」、そして「百まで生きていいかい?」。そしてその言葉どおり百歳の大往生。穏やかで生命感あふれる最期でした。

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お墓天災保険「墓証」を4口かけ、万が一の保険のこともしっかり考えたお墓。
※当店の標準施工は天災保険がつけられます。

美しくよみがえった地域の鳥居

富士見町神戸の御射山神社は由緒ある諏訪大社上社の摂社。同じ神戸の八幡神社とともに区民に親しまれてきました。二つの神社を結ぶ線上の小高い丘に立ち、御射山神社の参道へいざなう石の鳥居。昭和3年、昭和天皇即位を記念して建てられたものですが、80年余りが経過し傷みが目立つようになりました。そこで氏子の皆さんは昨年、鳥居の大改修にのりだしました。

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使用していた石材は茨城県産の稲田石。墓石にも用いられる良質の白御影です。加工機械もない当事、職人の高度な手作業の仕上がりですばらしい出来でした。部材の数箇所が折れるなどしていたため新規に建て直すことも検討されましたが、外国産の廉価製品が大量に流通している今ではかえって貴重なもの。当店としてもなんとか今までのものを活かしたいと考えました。「せっかく当時の氏子が想いをこめて建てた。地域を守ってくれた鳥居だから直せるとわかって本当に嬉しかった」と区長の小林定博さんは振り返ります。平成22年12月、鳥居は再び命を吹き込まれ、御射山神社の入口によみがえりました。今までと変わらず、南東の八幡神社の方角を向いて。

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間口広い外柵に神道式のお墓

進藤さん夫妻は定期的に草取りなどの墓地管理をしてこられましたが、このたび古い石塔群と先代が建てた奥津城を新しい外柵の中に据え直し、今後のために霊誌を新設する改修工事を行いました。祀官さんより「遺骨は土に帰すべきもの」と助言を受け、大地に通じる造りの納骨堂を設置し、お骨を木綿の納骨袋に移して納めることとしました。

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建碑にあたり、霊誌の題字と改修者の名前、納骨袋の祝詞、建碑祭で奏上する大祓詞(※1)は書道の師範をしている妻・礼子さんが書きました。「家族が直接関わった部分があることで、子どもや孫もお墓を身近に感じてもらえると思いました」。お骨は3才のお孫さんを含めた家族みんなで納骨袋に移しました。「魂はもう神様になってる、ここにあるのはカルシウムという物質だから忌み嫌うものではない、と祀官さんに教えてもらいました。変に違和感を持つのではなく、自然な流れの中で神様やご先祖の魂を感じてほしかったんです。孫とも明るく『おじいちゃんおばあちゃんバイバイ』などと会話しながら(遺骨を)移しました」。

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古い石塔は石を傷めない専用の薬品で洗い直します。すると今まで見えなかった文字や模様が現れ、ご先祖の戒名(※2)などがわかるようになりました。「次男だし、家を継ぐという意識もあまりないまま来たのですが、これを機会に家のルーツを知ることができました」。

進藤家では自宅の神徒壇(※3)に毎月1日と15日には榊を上げご先祖をお祀りしているとのこと。生活の中に神や先祖を敬う気持ちが根付いていることは、お子さんお孫さんたちの心の安定にもつながることでしょう。

※1 大祓詞(おおはらえのことば)…神道の祭祀に用いられる祝詞のひとつ。
※2 当時は江戸時代の檀家制度により仏式
※3 神徒壇(しんとだん)…自宅にて神と先祖を祀る御霊舎(みたまや)。仏教でいう仏壇にあたる。