桜の花散る明るいお墓
明るいグレーの細かい石目の白御影に、桜の花を半立体彫刻して、上品に仕上げました。
明るいグレーの細かい石目の白御影に、桜の花を半立体彫刻して、上品に仕上げました。
雨宮洋子さんの趣味のひとつは短歌を詠むこと。全国的な短歌の会「あさかげ会」の諏訪分会に参加し、日常の中で出会った小さな感動や思いを詠んでいます。昨年、洋子さんの詠んだ歌が「あさかげ会」全国大会で最優秀賞に選ばれました。
夫の久利さんは洋子さんの功績をたたえたい、と歌碑を作ることを決意。ご自宅の庭にあった自然石のうち台石と碑石にちょうどいい形のものを自ら選びました。
最優秀賞に選ばれた句は「炬燵辺に カタログの種子選びつつ 傘寿を土と共に生きなむ」。農業に長く携わり意気込みがにじみ出ているとの評価でした。苦労も楽しみも生活そのものとして受け入れてきた姿が伝わるすばらしい句です。
木村敏和さんの妻洋子さんは乳がんの宣告を受け、60代に入ったばかりで永遠の別れとなりました。9年の闘病生活をともに暮らした敏和さんでしたが、それでもたいしたことをしてあげられなかった心残りがあると振り返ります。「(妻は)あまり自分のことを話さないほうでね、病気の苦しみや死期のこと、死後の供養のこと・・・。でも自分ではいろいろ考えていたんじゃないかと後になって感じます。あいつはわりと信心深いほうでしたから、お墓づくりについてはきちんとしたかったと思います」
子供は長女と長男の二人。長女晃子さんは母親の病気を知ってから東京での仕事をやめて甲府に帰ってきていましたが、亡くなった後はお墓づくりにあたって父親のサポートをしました。まず墓地探しに同行。花が好きで、フットワーク軽く行動派だったお母さんには少しにぎやかなところのほうがいい、と人通りの多い住宅街の一角にある寺墓地を勧めました。
そこは敏和さん自身が子供の頃遊び場として通い、前住職にお世話になった思い出の寺でもありました。晃子さんはまた、お墓はきちんとした形式で建てたいという父の想いを汲み取り、インターネットで「仏教墓塔研究会」を見つけました。
仏教墓塔研究会とは、寺院や石材店に向け、仏教各宗派の教えに沿った形式でのお墓の建て方の啓発と指導を行う会。主催は天台宗檀家総代でもある福原堂礎氏。毎年1月に石材店対象の研修会を行っており、当店も同会に参加しています。
結婚式は信州富士見の教会で友人たちだけを招いて挙げた、というロマンチックな思い出を持つ木村さん。子供が小さい頃は夫婦でコーヒー専門の喫茶店を経営、その後会社勤めを経て現在はタクシー運転手として、様々な人と接する仕事をしてきました。タクシーを利用する人にはお墓参りの人も多くいます。駅から墓地まで送り、墓参の間しばらく待って、また駅や家に送っていく。お墓参りの後のお客さんから「ほっとした」という声が聞かれ、表情も変わってくるのが印象的だと言います。
明るい初夏の日差しが照る6月初旬。木村家のお墓の開眼式と、洋子さんの3回忌法要が行われました。石塔の表字には曹洞宗のご本尊である「南無釈迦牟尼佛」の文字が堂々と刻まれています。建立以来毎日墓参をしている敏和さん。「ほっとした」という気持ちを今一番実感していることでしょう。
夫建次郎さんの定年退職後、東京から小淵沢へ移住してきた新倉さん夫妻。山をこよなく愛する建次郎さんは、昔からよく山に登るうちに八ヶ岳の開放的な山の眺望に魅せられ、移住を決意。甲斐駒ケ岳や八ヶ岳の眺望がみごとな里山の一角に定住用の住まいを設けました。「こういうところに骨をうずめられれば」と願うようになったのがお墓建立のきっかけ。建次郎ご夫妻が初代となる、いわゆる寿陵墓です。「もともとお墓をつくるつもりはなかったんです。骨は大好きな山のどこかに撒いてくれれば、と。でもお墓って残った側のよりどころだからね。それにこの墓地だとお墓に入っても山を見られる。」
角をアールにしたやさしいフォルムの横型の石碑に満開の桜を彫刻。花びらがひらひらと舞う様子も動きがあり明るさが感じられます。建次郎さん自身が撮りためた花の写真を参考にデザインがおこされました。花を生けたまま枯れていく様子を見るのが忍びないので花立はつけず、代わりにブーケを置く台を設けました。お参りが終わればそのまま持ち帰りやすいスタイルです。「実家の墓は暗くてじめじめしたところにあるんです。お墓ってそういうものだと思ってた。だけどこのあたりのお墓はみんな広くて眺望のいいところに建ってる。その環境に似合うお墓にしようと思いました」
お墓が仕上がった後起こった東日本大震災。新倉さんの死生観や生活観も大きく変わりました。「震災直後ろうそくの光でご飯食べたりしたでしょう。人間ぜいたくになりすぎたよね。自然の中で生きる幸せを感じたい。都会育ちの子供もここに呼ぶのが楽しみになった。墓はもうひとつの集いの場になりそうです。」桜の彫刻のお墓の前で子供たちの自然な笑顔がこぼれます。
決して裕福とはいえない農家だった牛山家の長男として生まれた保さん。「ピカピカの靴にあこがれた」という少年期を経て、中卒で上京しさまざまな職種を渡り歩いた後出会った不動産業で、持ち前のハングリー精神を発揮します。トップセールスの座から起業独立へ。バブル期の夢のような繁盛の後も堅実に業績をのばしていきました。保さんのモットーは「いいものには(お金を)かける」。ないときには何もしない。借りない、使わない。そのかわりあるときは惜しまず有効に使う。いいものや大切なものにかける。ご両親もお金に関しては「貧乏でも人から借金だけはするな」としっかり言いつけていたそうです。保さんはその信念のとおり、健全な資金繰りのもとかけるべきところにはきちんとお金をかけてきました。これと見込んだ土地の仕入れ、住宅や事務所建築、母の養護施設費用。「特別な家柄じゃないけどさ、『牛山保』の名に恥じないお金の使い方をしたい」。
当然建墓もそう考え、良質の黒御影で国内加工の蓮華座付を選びました。「ある程度の予算が取れたからこの大きさにしたけどね、もし予算がなくてもデカいだけで安っぽいものは選ぶつもりはなかった。予算がないならできるまで待つか、小さくても良いものを。私の人生の集大成だから<本物>でしめくくりたい」
保さんの母浪子さんの1周忌が今年8月に行われました。臨終のとき浪子さんは保さんの手を痛いほど握り「ありがとう」とつぶやいたそうです。働きづめの人生だった浪子さんが養護施設ですごした晩年の口癖は「今が一番幸せ」、そして「百まで生きていいかい?」。そしてその言葉どおり百歳の大往生。穏やかで生命感あふれる最期でした。
富士見町神戸の御射山神社は由緒ある諏訪大社上社の摂社。同じ神戸の八幡神社とともに区民に親しまれてきました。二つの神社を結ぶ線上の小高い丘に立ち、御射山神社の参道へいざなう石の鳥居。昭和3年、昭和天皇即位を記念して建てられたものですが、80年余りが経過し傷みが目立つようになりました。そこで氏子の皆さんは昨年、鳥居の大改修にのりだしました。
使用していた石材は茨城県産の稲田石。墓石にも用いられる良質の白御影です。加工機械もない当事、職人の高度な手作業の仕上がりですばらしい出来でした。部材の数箇所が折れるなどしていたため新規に建て直すことも検討されましたが、外国産の廉価製品が大量に流通している今ではかえって貴重なもの。当店としてもなんとか今までのものを活かしたいと考えました。「せっかく当時の氏子が想いをこめて建てた。地域を守ってくれた鳥居だから直せるとわかって本当に嬉しかった」と区長の小林定博さんは振り返ります。平成22年12月、鳥居は再び命を吹き込まれ、御射山神社の入口によみがえりました。今までと変わらず、南東の八幡神社の方角を向いて。
進藤さん夫妻は定期的に草取りなどの墓地管理をしてこられましたが、このたび古い石塔群と先代が建てた奥津城を新しい外柵の中に据え直し、今後のために霊誌を新設する改修工事を行いました。祀官さんより「遺骨は土に帰すべきもの」と助言を受け、大地に通じる造りの納骨堂を設置し、お骨を木綿の納骨袋に移して納めることとしました。
建碑にあたり、霊誌の題字と改修者の名前、納骨袋の祝詞、建碑祭で奏上する大祓詞(※1)は書道の師範をしている妻・礼子さんが書きました。「家族が直接関わった部分があることで、子どもや孫もお墓を身近に感じてもらえると思いました」。お骨は3才のお孫さんを含めた家族みんなで納骨袋に移しました。「魂はもう神様になってる、ここにあるのはカルシウムという物質だから忌み嫌うものではない、と祀官さんに教えてもらいました。変に違和感を持つのではなく、自然な流れの中で神様やご先祖の魂を感じてほしかったんです。孫とも明るく『おじいちゃんおばあちゃんバイバイ』などと会話しながら(遺骨を)移しました」。
古い石塔は石を傷めない専用の薬品で洗い直します。すると今まで見えなかった文字や模様が現れ、ご先祖の戒名(※2)などがわかるようになりました。「次男だし、家を継ぐという意識もあまりないまま来たのですが、これを機会に家のルーツを知ることができました」。
進藤家では自宅の神徒壇(※3)に毎月1日と15日には榊を上げご先祖をお祀りしているとのこと。生活の中に神や先祖を敬う気持ちが根付いていることは、お子さんお孫さんたちの心の安定にもつながることでしょう。
※1 大祓詞(おおはらえのことば)…神道の祭祀に用いられる祝詞のひとつ。
※2 当時は江戸時代の檀家制度により仏式
※3 神徒壇(しんとだん)…自宅にて神と先祖を祀る御霊舎(みたまや)。仏教でいう仏壇にあたる。
山本家の亡きご主人次雄さんは管工事会社を営んでいました。「いわゆる職人気質でね。正直で、曲がったことは嫌い、お酒も飲まないし、仕事一本の人でした」と、妻良子さんは語り始めます。次雄さんのお父さんも材木職人で、職人同士当店2代目とウマがあい、兄弟杯を交わした仲だったとも伝えられます。また良子さん自身も当店3代目と同級生で、同じく職人としての仕事ぶりを評価していただいた上での建墓ご依頼でした。
ご主人との別れは急に訪れました。10年前心臓の手術をしましたがその後経過は順調。このまま生涯現役で仕事を続けるのだろうと自他共に確信していたさなか、発覚したのは胃がんでした。「驚きました。胃だけは丈夫な人だと思っていたから」治療方法を検討しているうちに急激に病は進行し、症状が出てから半年もしないうちに帰らぬ人となってしまいました。
ご主人が40年も前に区から墓地を買っておいてくれたものの、それまであまり関心がなかったという良子さん。亡くなってからあわただしくいろんな手続きに追われる中、悲しみに浸っている暇もない毎日でしたが、「お墓を建てることに決めてから少しずつお父さん(茂さん)への気持ちの整理がついてきたかね」。
明るい白御影で統一された山本家のお墓。上質の国産白御影(真壁石小目)の本尊石塔は清廉潔白な山本家の家風を象徴しているかのようです。
すっきりとした横型のお石塔の表字は「稲雲(とううん)」。彫刻面に対して主張しすぎない大きさで、上品な行書体で表現されています。入口には植栽スペース、そして奥に佇むのは苔むした八ヶ岳の自然石。しっとりとした緑灰の色合いのお石塔を中心に、全体的に枯山水のような趣をかもし出すのが、小山家のお墓です。
7年前、長坂町小荒間に千葉県から移住してきた小山さんご家族。ご夫婦は定住、次男・兵衛さんは普段は東京でお勤めですがほぼ毎週末をここで過ごしています。400坪を超える敷地は家庭菜園をはじめ様々な種類の山野草や庭木がひとつに解け合いながら、古民家風の住宅を囲んでいます。
今お墓には10代でガンを発病し20歳をすぎてまもなく逝った長男芳房さんが眠っています。一度は千葉県印西市の自宅のそばにお墓を建てましたが、その後自然豊かなところで暮らしたいという夫・克衛さんの強い希望で、八ヶ岳への移住を決意。気軽にお墓参りにも行かれるように、お墓も引越しすることにしました。
「自宅の庭の延長のような場所にしたかった」とお墓づくりへの想いを語る小山さん。 正面の字は「小山家」と彫ってあったものを、ご家族の希望で「稲雲」に彫りなおしました。病気と闘いながら早稲田付属高校に通っていた克房さんの戒名の一部ですが、八ヶ岳の里山にもぴったりの言葉でとても気に入っていると小山さんは言います。お墓にすえた自然石はここ長坂の家の庭から持っていったもの。自宅の庭に生えていた落葉低木サラサウツギもお墓に株分け。植え替え時はちょうど小さなピンクの花をつけ、侘びの情緒にほのかな彩りを添えていました。長坂の家の庭にあったものを分けることで、家族4人いつでも一緒という想いが実ったようです。
ヒデさんこと平出英夫さんの一日は仏壇に向かっての読経から始まります。菩提寺三光寺(曹洞宗)の教えに従い「般若心経」「修証義」などを、約30分かけて暗唱。持ち前のハリのある声で浪々と唱え上げる姿は、いつもの人懐っこい豪快な笑顔のヒデさんをより魅力的に見せてくれます。そんな姿が評判を呼んで、よそのお宅からもお経を頼まれることがあるとか。
読経を始めたのは、お母さんが末期の胃がんだと宣告された頃から。医師からは手立てはないと言われましたが、「人事をつくして天命を待つ」がヒデさんのポリシー。できる限りのことはしてやりたいと手術を依頼。一方で自身は読経を行うようになりました。真摯に病気と向き合った甲斐あってか、お母さんは回復し、それから11年存命してくれました。
戦争で病気になり復員後すぐに亡くなったお父さんと、女手ひとつで育ててくれたお母さんをねぎらうためにも、建墓は悲願でした。石塔には艶もちのよい良質の黒御影を用い、須弥壇と水切りの加工を施し彫刻面にも額を入れたことで、全体的に華美ではない高級感を感じさせる仕上がりとなりました。ひときわ想いがこもった箇所は正面の彫刻文字です。曹洞宗の仏を表す○(円相)を戴いた「平出家先祖代々」と彫りました。「この○マルが気に入ってなぁ。いろいろ説明してもらったけど、おれには『人類みな兄弟』『世界はひとつ』って意味にとれたんだ。あの世へ行ってもみんな仲良く、ってな」
日常的に仏様と対話しているヒデさん。お経をあげていると自然に気が休まるといいます。「やらねぇとおちつかねぇわ」といいながらお墓にも週に1度は出向きます。平成9年建之。頻繁に手入れされていることもあり、お石塔は変わらず黒々と光っています。「こんないい墓じゃ早く入りてぇわ」と、またガハハと豪快に笑うヒデさんでした。
きちんと宗派の教えに則して建てていただいたお墓は、石屋としてもうれしいものです。