おかみブログ

2006年4月28日

包丁余話

いつも行くクリーニング屋さんで、なぜか包丁をもらいました。
ことの発端は娘のいたずら。
台所探検が大好きな1才3ヶ月の娘は私が夕食のしたくをしているところへ侵入してきては、引き出しやラックの中のものを片っ端から取り出すことに夢中。
しばらくして「どこかで静かにしてるな」と思ったらリビングのホットカーペットの上にびちゃびちゃと酢をこぼしているではありませんか。
ひえええ!
娘は体中酢の雨を浴びてすごい匂いになってたので、夕食の準備も中断し、急いでたらい風呂に入れました。
風呂から上がると部屋中酢の匂い。
げんなりしながら、まぁこれもこのカーペットの宿命、今季のお役ご免ということにして、次の日いつものクリーニング屋さんに持っていったわけです。
クリーニング屋のおばさんにその話をすると
「ほりゃーほーさ。親とおんなじことしたいだもの。」
といいながら奥に行ってなにやら取り出してきました。
それがその包丁。といっても白いプラスチックのおもちゃです。
「親とおんなじものやっときゃぁうれしいで。これ、便利だよ。一応ぎこぎこすれば野菜も切れるの。手は切れないけど、ちょっとは痛い。痛い思いをしなきゃだめだしね。ちょっと汚れてるけど、持ってきな。とりあげるばっかじゃかわいそうじゃん。」
「子どものときも孫のときも、ダメっつことは言わなかったね。ダメなことはそのうちわかるだから。」
娘はその包丁がモノを切るものだとはまだわからず、ガリガリとかじりながら投げたり拾ったりして遊んでいます。クリーニング屋さんの孫3人が使ったおもちゃの包丁は、ちょっと使い方違うけどウチの子に引き渡され、みごとお気にいりグッズの仲間入りを果たしました。
ブログランキングに登録しました。
読んでくださったらぽちっとお願いします。

2006年4月26日

木を育てる文化

長坂町小荒間に「古杣川」という一級河川があります。
「ふるそまがわ」と読みます。
ある人からその意味を教えていただきました。
「そま」というのは国字で、国字というのはいわゆる日本人独自の発想で、漢字をアレンジしてつくった文字のこと。
国字には他にも「峠」とか「辻」などがあります。
ここまでは国字についての辞書の受け売り。
ここからは「杣」を教えてくれた人の「杣」についての受け売りです。
「杣」とは材木にするために木を植えた山のこと。
その材木をさす場合もあれば、そういう行為をさすこともある。
そもそも木を育てて材木にするという発想は日本にしかない。
材木にした後はまた植林して次の伐採を待つ。
漢字が生まれた中国には「杣」という概念はない。
伐ったら伐りっぱなし。
昔はそれでも使うほうが少なくてなんとかもっていたんだろうが、
近年伐採しすぎて砂漠化が進んでしまった。
だからこの前みたいに黄砂が・・・
少ない国土で資源を有効利用しようとする概念が昔から日本にはあったんですね。
木を伐りだした後流して運ぶ川を「杣川」といったんだそうで、小荒間の「古杣川」はそういう川だったんでしょう。しかも老舗の。
そういう業に携わる人のことを「杣人(そまびと)」といい、木こりもその中に入ります。
そまびと。いい響きです。
戦後八ヶ岳には成長の早いアカマツが大量に植えられました。早く資源化して、産業を盛り返さなければ、という行政の意図があったからです。
ですが、いまやそのアカマツはほとんど手入れされることもなく、延び放題。広域農道を敷設するからと林の真ん中だけどーんと伐採されてます。
そこを毎日すごい時速オーバーで通勤している私っていったい。
ちなみに「杣」を教えてくれたその人は、よわい70を越えます。
つい最近八ヶ岳にセカンドハウスを得、田舎暮らしを始められました。
風力発電を試みながら、最近は国字を初めいろんなことの研究を進めている、パワフルな人です。
次の世代へ残す財産。
環境、知恵、そして活力。

2006年4月21日

新・田舎で暮らそう

田舎暮らし系雑誌のライターさんとカメラマンさんと、「親睦」と称して飲みに行きました。
久しぶりの、こういう飲み会。
場所は小淵沢のサンディアカフェ、2次会にLamps Lodge。
南米風の多国籍料理&バー・サンディアカフェはもう小淵沢住人にはかかせない、みんなのたまり場です。
ここで、いろんな人に出会いました。多様な職業、考え方。
でもどこか共通点があります。
「ここに移り住んだ」という思いなのかもしれません。
私は八ヶ岳に来て、ある意味、このバーに救われたんだと思います。
今日一緒だったライターさんは、ここの客層が新鮮だといいます。都会でも片田舎でもない、新しい田舎暮らしの形が凝縮されてここにあるのだそうです。
そして、今年また新たなスポットが誕生。
老舗のペンションを引き継いでB&Bとバーを始めた若いKさんご夫妻。
お子さんもまだ保育園通いで、親近感湧きました。
70年代、80年代のフォークやロックが流れるそのバーは「Lamps Lodge」。元のペンション「花らんぷ」からとった名前なのかな、と勝手に推測してます。
2軒とも馬術競技場そば。
これから夏に向かって、イベントももりだくさんです。

続きを読む »

2006年4月17日

10年後の建物

仕事柄、別荘の中古物件を見ることがよくあります。
たまたま続けざまにログハウスを3件見ました。
どれも築10年以上経っているものです。
造りによって歴然と差が出るもんだ、と今回つくづく思いました。
いい素材は経年変化でいい赤茶色などに変化しているのに対して、安い素材はなんとなく痩せたようなくたびれた風合いになっています。
これは口ではなかなか説明できないのですが、素人目にもとにかく違うのです。
「なあんか、ちがう!」という居心地の良し悪し?感覚的なものです。
ログハウスは木を積み重ねて建てて行くシンプルな工法ですので、細部の加工が丁寧かどうかでも全体の感じが大きく左右されるみたいです。
無垢の木が動くことまで考えて時が経つ程になじんでくる家と、金物やコーキングで無理矢理調整している家とでは、やっぱり最終的には「居心地」の良し悪し。
いい無垢の家と新建材の家ではもっとはっきり差が出ます。
新建材は建てた瞬間から劣化の一途をたどります。
石油製品が経年変化で「いい風合い」になることはあり得ません。
加えて、時代のはやりすたりを直接受け、10年も前のものなど、間取も設備も使用材料も見るからに時代遅れになってしまいます。
そういう中途半端に昔の住宅を見ると、なんだかとてもせつない気持ちになってしまいます。
お墓は家よりもっと使用年数の長いものです。
しかも、ずっと雨風にさらされているので、環境は家より厳しいのです。
10年経つと石材自体の質と加工技術の良し悪しで、風合いが全く違います。
やはり質のよい石で、何度も丁寧に磨きをかけたお墓は10年たってもちゃんと艶があります。
外で見る時、艶の有る無しは気品に大きく左右します。
本物とニセモノの区別は、それに触れる機会がないとなかなか見る目が養えません。
同じダイヤモンドでも等級の差なんて、私にはついぞわかりません。
でもせめて衣食住にかかわることは、なるべく見る目を養いたいものです。
いつまでも飽きのこないもの。
それが結局は「ホンモノ」ってことなんじゃないかな。
そして環境にも人の心にも優しいものなのでしょう。

2006年4月11日

あの身曾岐神社で喜太郎ライブ!

長坂にある珈琲館「翡翠」のコーヒーが個人的には八ヶ岳の中で一番好きです。
コーヒーの種類も多く、比較的薄めの、でもちゃんと味がわかる、良質なものです。
でも最近マスターはほとんど遊びモード。
まぁ、それがリラックスした味になってコーヒーにも現れるのでしょうが。
マスターの本業は能面打ち師。
小淵沢にある身曾岐神社ともつながりがあり、マスターのつてで毎年大祭前日(8月3日)の薪能に着物で行くのが私の楽しみです。
マスターはあのミュージシャン喜太郎さんとも懇意にしていて、なんと!身曾岐神社での喜太郎ライブが実現しました。
マスターが4年にわたり奔走した成果です。
幽玄な能舞台で行われる、新しい和の響き。
必見です!!!
8月6日(日) 夕方から
詳しくは珈琲館翡翠まで。
TEL:0551-32-7321

続きを読む »

2006年4月7日

子どもをとりまく環境

「マスク2」を見ました。
軽快でばかばかしくてちょっとほろり、の娯楽作品でした。
一方で子育て環境には別の意味で興味がありました。
(自分が子育てするようになって、こういうことに気がまわるようになります。)
アメリカでは(たぶん欧米全般)、赤ちゃんのときから個室が与えられて、ベビーベッドで一人で寝るのですね。赤ちゃんが夜泣きをするたびに親が起きて別の部屋に居る赤ちゃんの世話をする・・・。
かえって大変じゃないのかなぁと心配になってしまいます。
うちはズクなしなので3人で和室で川の字になって寝てます。
それから子ども向きのアニメがやっぱり暴力的です。
お笑いなのですが、やたらモノをこわしたりぶつかったり生き物を痛めつけたり、という動画が多いです。アメリカンカートゥーンの特徴なんでしょうけど。
なんだかガチャガチャした文化だなぁ。
「マスク2」の母親のセリフの中でも「ぐずったらモーツァルトを聞かせて。アニメは見せないで、バカになるから」というのがありました。
ここが一番笑えました。
ま、子ども向き番組が暴力的なのは、日本でも同じか。

2006年4月5日

入園式、ビデオ収録はあり?

山梨日日新聞のコラムより。(記憶なので正確な文章ではありません)
「運動会のかけっこでピストルが鳴ると、異様な光景が現れる。親たちが無言でビデオを高く掲げている姿だ。(中略)運動会でビデオ禁止にしてみてはどうだろう。きっと盛り上がるに違いない。」
後で見返すことよりも、今現在の子どもの姿を、フィルターを通してではなく直接見ることが大切。
・・・とはわかっていても、ついつい撮ってしまいました。
デジカメのメモリーは画像ファイルでいっぱい。
撮ることに夢中になっているすきに、娘は式の最中もどんどん走り出し、壇上に登って上級生の作った飾りを指差して「ほしいほしい」モードで騒ぎまくる・・・。
やっぱりリアルタイムが一番おもしろいですね。

入園式。思い起こせば・・・

3日は入園式でした。
1才2ヶ月の長女が今日から町内の保育園に通います。
思えばここまでいろいろありました。
小淵沢の保育園は6ヶ月から預ってくれます。
私は産休後すぐに職場復帰するつもりだったので、妊娠中から早々と申し込んでいました。
6ヶ月までは近くに住む夫の母(つまりおばあちゃん)に任せることにしました。
このおばあちゃん、大の子ども好きで、初めは甘やかしたりしやしないかとひやひやしていましたが、思いのほかすばらしい育て方をしてくれました。
とにかくよく話しかけてくれて、私の授乳を極力長続きさせるよう少しの間ならミルクを与えるのを待っていてくれたり、衣服の調節、散歩、残業の日は入浴まで、と至れり尽くせりのマンツーマン保育です。
そんな環境の中でのびのび育った娘は表情も豊かで良く笑いよく食べる元気な子になりました。
さていざ満6ヶ月になって保育園に預ける段になると、なんだかとてつもない罪悪感がおこってきました。
6ヶ月というとご存知の通り、まだようやくはいはいができるようになった頃です。自分の手足やすぐ近くのものには興味がありますが、まだ社会生活をするような年ではないように感じました。
何より、今めきめき心身ともに成長過程にあって、朝と夕方でできることが違う、というような段階を観るおもしろさを他人に味わわせるのがなんとももったいないと思い始めたのです。
保育園の先生の言葉もひっかかりました。
田舎ではそんな小さい子を保育園に預けること自体がめずらしいので、「こんな小さい子久しぶりだわ、離乳食、うちの子のとき何あげてたっけ。」プロの先生の口から「うちの子の時・・・」なんて、大丈夫?
まぁもちろん大丈夫でしょうけど、これはもうしばらく身内で見たほうがいいな、と結論出したわけです。
せっかく保育士さんを確保していただいたのに、断る、という失礼かつ申し訳ないことをしてしまいました。
そんなこんなで先延ばした保育園生活も、ついに昨日始まりました。
もうすっかり子ども社会に溶け込み、他の子どもと何やら言葉以外のコミュニケーションを交わしています。
私は押入れの奥からここ何年も使ったことのない裁縫道具をとりだし、せっせとネームタグや食事エプロン、アップリケ付けに追われる日々。
なにしろ紙おむつのひとつひとつまで油性ペンで名前を書くのです。
保育園に預けるお母さんはみんなこんなことを子どもの数だけやってきたのでしょう。
ほんとに、おばあちゃんさまさまです。