おかみブログ
じゃがいも博士
ある大手食品メーカーに長年お勤めだった人のお話をききました。
ジャガイモの契約農家をまわって、品質向上と安定供給に仕事の半生をつぎ込んだ人です。
ジャガイモに対する愛情と熱意が奥の奥から伝わる時間でした。
以下、その人といただいた資料のウケウリ。
◆◆◆
ジャガイモは庶民的で強いというイメージがある。
土の中から掘り出されるという素朴感、いつも市場にあって価格も安いという身近さ、澱粉・たんぱく質・ビタミンCが豊富という栄養価の高さ、飢饉のときや荒廃した土地でも比較的すぐ作れるという手軽さ。
じゃがいものない生活は考えられないし、そのまま食べるだけでなく澱粉などを利用した加工食品になってたりする。
だけど、ジャガイモ本来の性質はきわめて病気に弱い。
ウイルスや細菌にやられやすく、病気に冒されたジャガイモは極端に収量が減って味が悪く栄養価も低いものになってしまう。
おまけに自家採取(自分の畑でとれたイモを種にして植えること)が難しく、無理にやろうとすれば必ずといっていいほど上のような状況に陥る。
自家採取を3代もやれば、ほぼ100%病気に。
しかも土も汚染されて二度と良質なジャガイモ栽培ができなくなってしまう上、末代まで迷惑がかかる。
だから種イモは国のもとで、徹底的に管理されている。
管理された種イモは消毒体制がしっかりとられている。
作物としてのイモは輸入禁止。(ジャガイモだけでなく土のついた植物全般輸入禁止。)
ポテトチップスの原料が100%国産なのはそういう理由から。
既に江戸時代アンデスから回りまわって日本に入ってきたころから自家採取を続けると収量が落ちることが知られていた。
そのため農家は種イモ用のイモは低温管理されたところで別に作っていたという。
自家採取もできないほどの繁殖能力の低い作物を、さらに品種改良が繰り返されて、固体としての生命力は失われた。
それが、スーパーに通年並ぶ、おいしいイモの正体である。
◆◆◆
これはちょっと衝撃でした。
つまり。
農作物作りで「無農薬無施肥」は理想だが、ジャガイモに限っていえば、完全無農薬はほとんど夢物語。
よしんば丹精こめて土作りをして消毒せずに育てたところで、もとの種イモは薬漬けになっているというわけです。
もちろん、家庭菜園でジャガイモづくりをして、取れたイモを次の植え付けにまわす、ということをして「ちゃんとできたよ」という人もいます。
世の中には「無農薬」をうたったジャガイモ商品も出回っています。
だけどものすごいコストをかけたあげく病気にかかって、収量が少ない、栄養価の低い、味の悪い、そんなジャガイモが果たして価値のあるものなのか。(ウチのはそうじゃない!という人もいるでしょうが)
私は必ずしも無農薬じゃなきゃイヤという主義でもないから、栄養価が高くておいしくて安いジャガイモが開発されたことにも、やっぱり感動を覚えます。
そうは言ってもその人は、家庭菜園でジャガイモや他の野菜を育てています。
目標はおいしい野菜をできるだけたくさん採ること。
50坪ほどですから、人の手でできることはやって、なるべく薬剤処理は抑える。
土はわらや堆肥をまぜて何年かかけてつくればいいし、テントウムシなどの害虫は指でつぶせばいい。
それでも昨年みたいに雨が多くて病気が発生したりすることもある。
そしたら「今年はダメだった〜」とあきらめる潔さも大事。
そんな風におっしゃる姿がとても自然体で、無理がなくて、魅力的に見えました。
お話のあとはむしょうにポテトチップスが食べたくなって、3袋ほど買い込みました。
ふたつの卒園式
Mooが在園児として最高学年の卒園式。
3連休1日目と2日目、普段通っている市の保育園と、森のようちえんのふたつがありました。
保育園のほうは何週間も前から毎日、「在園児からの贈る言葉」を練習していました。
残念ながら在園児の親は式には参加できないので、本番のがんばりぶりを確認することはできませんでしたが、
先生によると「トップバッターなので声のよく通る子にお願いしました」とのこと。
「はしるのが はやい Aくん Rくん・・・」の1文のセリフをもう一人のお友だちと口をそろえて言うのです。
模範的な言葉づかいを知るのと同時に、棒読みのしかたまで教わってしまう・・・
言うセリフも発言担当者も、先生が決めてくれ、
管理された集団生活はこの年から培われている・・と感じました。
一方、対照的な「森のようちえん・ピッコロ」。
こちらも在園児としての参加ですが、Mooは週1回しか通っていないので練習に参加することもなく、見てるだけ。
ただ、こちらは言うタイミング、誰にどんなことを言うか、という課題は与えた上で
卒園児や在園児が言う言葉はあくまで本人が考えます。
その結果、何を言っていいかわからず3分くらい沈黙の時間があったりもしますが。
(列席者はみんなその子が発言するまでじっと見守っています)
Mooは来年どんなことを言うのかなぁ。
市の保育園では、「自分の名前と好きな食べ物を言ってごらん」と順番に発言させると
必ず前の子と同じものを言う子が続きます。
早く順番を次に渡さなきゃ、という意識がどこまであるのかわかりませんが
次から次へとクローンのように繰り出される発言が、親としては(社会から逸脱してないという意味で)ほっとする一方、物足りない気もします。
ピッコロの方針は「子どもは自ら考え、行動し、大人はそれを見守って待つ」。
時間がかかってもいいから、その子が自発的に行動することを一番に尊重するのです。
ただこれにはとても時間と経験が必要です。
週1回の参加のMooはまだ慣れていない様子。
ちょっと酷かな、というときもあったけど
おおむねとてもいい顔をして、森の中の卒園式に参加していました。
卒園式のあとは野外ランチ。
炊き出し班の保護者の方たちが作ってくれたお赤飯に、各家庭からの持ち寄り野菜を煮込んだすまし汁、
持ち寄り料理の数々が並びます。
晴れている割には気温の低い日だったけど、気持ちよく外でみんなで食べました。
ピッコロはしばらく春休み。
4月の入園式にはちょっと大人の顔をして新園児を迎えられるかも。
ぽかぽか日和の墓参り
いい日和の、3連休初日となりました。
卒園式で在園児最高学年として卒園児を送り出したあと、
午後はお墓参りに行きました。
石屋の先代、おとうさんのお墓は自宅と石屋のちょうど中間あたり、
郷土資料館の隣にある部落墓地の一画にあります。
(地元の人はみんな「部落」といいますが、差別的な言葉ではなく、普通の「集落」とか「地区」とかいう意味です。)
ここは小淵沢町内でも大きな部落墓地。
本町地区と宮久保地区2つの地区の墓地と、「百八つの鐘」で知られる高福寺の霊園が集まって、かなりの墓数があります。
施工現場となることが最も多い場所でもあります。
お父さんはまだ正式なお墓を建ててあげられていません。
墓標と簡易の線香立と水鉢が置いてあるだけです。
どうしてもウチウチのことは後回しになってしまって。
13回忌も過ぎ、そろそろちゃんとしたものを建てたいところです。
でもいざ自分ちのを建てるとなると、ものすっごいこだわりを持ちそうで、
それはそれでやっぱり進まない・・・。
さて、いつになることやら。
MooとTaz、二人の孫たちがお墓参りをします。
Mooは墓標の頭に何度も水をかけ、Tazはせっせと落ちている線香の残りを線香立に入れようとしています。
こういう所作はバーバのフリマネです。
正式には墓標に水はかけたりしないものだそうです。
でも何かしてやりたい、という気持ちからばーばはよく墓標に水をかけながら手で土をぬぐったりしています。
それを見ていたからか、Mooも言われなくても水をくんできて墓標のおそうじができました。
卒園式でいただいたおみやげのお菓子をお供えし、ナムナム。
気持ちのよい墓参となりました。
みかげ石のふるさと
「ホテルのただ券があたったよ」と親から譲り受けた特典を有効活用するため、
家族で2泊3日の神戸旅行へ。
神戸といえば「御影石」のふるさとです。
神戸市東灘区の御影(みかげ)地区で採取された花崗岩を御影石というようになって、
いつしか花崗岩全体の通称として用いられるようになったとか。
焼物でいえば瀬戸と「せともの」みたいなものでしょうか。
神戸の御影石は業界では「本御影」などと言って、まさに本物っぽい呼び方をしています。
黄色いサビ色が出るのが特徴で、比較的水を吸いやすく変質しやすいとのこと。
だから墓石業界ではあまり使いたがらないし、第一もうほとんど取れないものです。
でも神戸の古いお墓はやっぱり、そこで取れた御影石をつかっていて、
それはそれで情緒があって、いいものです。
私たちが泊まったホテルは旧居留地の近くでした。
港に近いところで、開港の際は外国人使節が多く住んでいたところ。
今では世界一流のブティック(ヴィトンやプラダ・・・)が軒をつらねる、おしゃれな界隈です。
ステキ。普段田舎にいるから、今回はとことん町歩きをしてみました。
まずはホテルの前でくだんの御影石による建造物をみつけました。
外国商館跡門柱。(現第一生命ビルディング前)
開港直後の石造りの建物の一部を保存したものです。
さて、旧居留地は建築的にもはなかなか絵になるところです。
古い建物もよく残っているし、新しい建物も高級感のある造りになっている。
石もふんだんに使われていました。
歩道の石畳、ビルのフロントのカウンター、プランター、石柱など・・。
建築に大胆かつふんだんに石が使われていて、町全体が見ごたえがしました。
石からちょっとそれてしまうのですが、
神戸はお菓子天国でもあります♪
元町商店街のわずか数十mの間に何軒のケーキ屋さんやパン屋さん、和菓子屋さんがあったかわかりません。
つい競合しないのかな、などと心配してしまいますが、そこは甘いもの好きの神戸っ子のことですから
いくつあっても大丈夫なのでしょう。
それにしても、高級菓子店はことごとく石造りですね。
この乱張りの壁なんか、神戸に合いますね。
最後の日は公園でひと休み。
夫が仕事用の資材を買いにユザワヤやロフトに行っている間、
子どもたちと私は市役所の隣の東遊園地で待っていました。
遊園地といっても、静かなパブリックスペースです。
ここにもおもしろい石造物を見つけました。
近代洋服発祥の地モニュメント。
さすが。徹底しておしゃれですね。
洋服の見ごろをモチーフにしたアートです。
神戸といえば震災の傷跡も忘れてはいけません。
私は当時はもう東京に出ていたので、あまり実感がありませんが
それ以前に知っていた神戸の町並みが大きく変わってしまったところもあります。
これはメリケンパークの入口にある、波止場。
コンクリートが割れて街灯も大きく傾いている様子をそのままに残しています。
しばらく離れていると違う面が見れた神戸でした。
波モチーフのアートに登るMoo。
雪の中ですが春です!
久々のブログアップになります。
いろんな仕事や用事が重なって、おまけに旅行にまで行ったりして(それも先月なかばのことだけど)
とうとう1ヶ月近くもあいてしまいました。(反省・・・)
今週は大雪がふりました。でも雪の中からも確実に春が近づいています。
道祖神、白梅、土佐ミズキ、カマツカ、八重桜。
花がさいたり、木の芽がふくらんだり。
←高根町下黒沢からの南アルプス
重ーいべた雪で、屋根から落ちた雪の重みで物干し台がへしゃげたのにはビックリ。
さて、忙しかった原因・その1。
石屋で通信を創刊しました!
その名も「石や・ころころ通信」。
お仕事をさせていただいた方や地域などでお世話になった方々へお送りする定期おたよりです。
石屋の近況報告、お客様の声、最近感じたこと、地域のイベント案内などを載せています。
これもやろうやろう、といいつつ創刊まで何ヶ月もかかってしまいましたが、
みんながやりたかったことのひとつです。
石屋というのはリピート性が少ない商売ですが、このおたよりを通じて今までご縁のあった方とこれからもつながっていけるというわけです。
また、小淵沢・富士見で親しくさせていただいているお店にもまとめて置かせていただけることになりました。
そういうところから手にされた方も気軽にお店に足をはこんでいただいたり、ブログをのぞいていただけるとうれしいです。
これから隔月で発行していく予定です。
どうぞごひいきに。
忙しかった原因・その2
大学時代のゼミの先生が退官されることになり、卒業生も含めたゼミ文集を作ることになりました。
時はバブル崩壊直後、最後の就職売り手市場。
そんな頃に大学を卒業した私。
在学時代にもゼミ文集の編集を担当し、卒業した先輩方に寄稿していただいたりしたものですが、
今回は、その時編集のノウハウを手取り足取り教えていただいた先輩が中心となって
先生ご退官最後の文集を作るということになりました。
「何か書いて」と大恩ある先輩からの依頼(私にとっては命令)にこたえようと、
でも自分だけでは荷が重いので同期に呼びかけをし、みんなの原稿を集めることにしました。
私たちのゼミのテーマは「集団力学」、社会心理学のひとつです。
集団の規範やら、リーダーシップやら、作業効率やら、対人心理やら、そういったことを実験と考察を通して追求していくガクモンです。
だから、と強迫観念にかられなくてもいいのですが、
つい、こういう事態になるとなんとかみんな一丸となって結果をだしたい・・みたいなノリになってしまうのです。
(私だけか???)
卒業して18年。
アンケート形式のフォーマットをつくり、かろうじて年賀状だけは続いていた同期12人に記入をお願いしたところ、ほとんどの人が快く、しかも締め切りに間に合うよう書いてくれました。
子育てまっただなか、中堅管理職まっただなか、みんな忙しいのに感動です。
これぞ集団力?!
アンケートの質問事項は同期の一人が提案してくれたものですが、その中のひとつが考えさせられました。
「大学時代の自分が今の自分を見たらなんと言うと思いますか?+それに対してなんと言い返してやりますか?」
ちなみに私の記述は
「ヤマナシ?どこそれ?」「今はやりの田舎暮らし。あんたがプラプラあっちこっちに首つっこんでるおかげで、今の生活楽しいわー。どれもぜんぜん身になってへんけどね」(関西弁で読んでください)
まあ大学時代の自分も落ち着きがなかったという反省と誇りが、良くも悪くも今の自分を形成してるいうことですわ。
2006年3月に始めたこのブログも4年目に突入。
節目の年の誕生日をむかえ、心も新たにしました。
これからもよろしくお願いいたします。