桃と歴史と教育の里、穴山を歩く
新府・穴山付近は今、桃の収穫の最盛期。
かつて武田勝頼時代に築城された新府城は、断崖絶壁の七里岩とそれをはさむように眼下に流れるふたつの川・釜無川と塩川のおかげで、天然の要塞として優れていたといいます。
一般的には武田24将の1人、穴山新君の進言を受けて作ったとされていますが、こののち新君は徳川方に寝返ってしまいます。
名城と信じて建てたのに、当の進言者が内通して落城してしまう、なんて悲しい歴史。
別の解釈として、井上靖の小説『風林火山』では、信玄の側室・由布姫(諏訪氏の姫)の子供を我が子のようにかわいがっていた信玄の軍師・山本勘助が進言したことになっています。
勘助は七里岩が舟のようにみえ、背後に南アルプスと八ヶ岳を望む平地に立ち、幼い勝頼にこの地が天然要塞としてふさわしいことを解いていました。
こっちのほうが救いがありますね。
私は信長好きなので、山梨に住むまで武田氏、とりわけ勝頼なんかはどうでもよかったんですが、(あっこんなこと言うとご近所から火矢が飛んできそう・・・)
ご縁あって武田氏のテリトリーに来たので、悲劇の跡取りぼっちゃんのこともシンパシーを感じるようになりました。
勘助が進言したその場所は、たぶん今のラザウォーク双葉付近だったんじゃないかな、と今日仕事で近くに行ったとき眺めていました。
七里岩と南アルプスと八ヶ岳がちょうどそんな風に見えるのです。
で、仕事の後ちょっとだけ新府・穴山周辺を散策。
実は先日ウチで彫刻した記念碑が穴山の伊藤窪集落に建っているのです。
戦国から時代は変わって、明治〜昭和初期の近代。
文部省唱歌「たなばたさま」の作詞者・権藤はなよが、ここ伊藤窪の出身でした。
先日7月7日の七夕の日に合わせて、権藤はなよ記念碑が建てられました。
「たなばたさま」の歌詞とはなよの経歴を彫ったメイン記念碑が穴山駅前公園に、
そのほかはなよの作詞した童謡6作がそれぞれひとつずつ歌碑として、穴山町周辺の各公民館に。
施工した元請業者は韮崎地元の石屋さんですが、すべての歌碑の彫刻をウチで行いました。
(彫刻専用の機械がそろってるので。)
あの『たなばたさま』の作詞者が山梨の人だったのねぇ。
いい仕事に関わらせていただきました!
最後はやっぱり桃で締め、でしょう。