おかみブログ
2006年6月16日

有為無為の教え

「木を育てる文化(4/26)」執筆の元となった、長坂にセカンドハウスを持つよわい70超の方。
最近仕事でからみがあり、お話を伺う機会が増えました。
とにかく物知り&話好きな人で、時がたつのも忘れます。
昨日の話では「有為・無為」の言葉が出てきました。
共に仏教用語。
「有為」は「さまざまの因縁によって生じ、常に生滅し永続しないすべての物事・現象。(大辞林)」
「無為」は「因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないもの。すなわち、涅槃・真如といった仏教の絶対的真理のこと。(大辞林)」
理屈はわかりますが、本当に理解するには一生かかっても無理かも。
逆に、一生かかってそれを理解しようとすることに、人間は生かされているのかもしれません。
勝手な解釈で実例を求めてみました。
石は長い時が経っても形が変わりにくく、それゆえ人の供養のために使われてきましたが、それでも徐々に雨風で朽ちてはきます。墓石そのものは永続しない現象。
でも人を供養するために墓を建てようという心は永遠です。
その心が何もなくても永遠に引き継がれるなら墓石は要らない、ということになります。
ですが、人間はゲンキンなもので、何か拝む対象物がなければなかなか心を維持することはできません。だから墓石を建ててきたのでしょう。無為の心を有為の物質に託すのです。考えてみれば皮肉なハナシです。
「樹木葬」や「散骨」という埋葬方法が注目を浴びていますが、その行為自体は無為の心の現われですから、もちろん非難すべきではありません。
ただ、埋葬した遺族の次の世代になったときにちゃんとその心が引き継がれるか。
もちろん教育が行き届いていれば不可能ではないでしょう。
でもけっこうその場限りのことが多く、遺族ですら後になってとてもさびしい思いをすると聞きます。
まぁ樹木葬はいいかもしれません。木という対象物があって、それがどんどん伸びて「これがおじいちゃんの木よ」などと子や孫にひきつがれていく可能性はありますから。
ただ現実にはやたら人の山に木を植えるわけにはいかないし、自宅の庭だって、代々その土地が引き継いでいかれる世の中ではないし、難しいかもしれません。
墓地は個人の所有権ではなく、あくまで「墓地としてしか使ってはだめですよ」という使用権なので、存続性がかなりの確率で確保されています。そういう限られた土地では(特に日本のように国土が狭ければ)あまり形の変わらない石が、もっとも重宝された墓標素材だったわけです。
有為無為法からハナシがとびました。
無為にはもうひとつ、「あるがままにして作為しない」、「自然のまま、natural」という意味もあります。
ブログ説明にもあります、「無為自然の育児」はそういう思いを込めたものです。なかなか作為無しにはいきませんけどね。
さて、こんなハナシにつきあってくれた長坂の人は、これの5倍くらいご自分でも話をして、それを聞くのも楽しみと緊張の連続です。
私のおじいさんというにはまだ若い方ですが。