おかみブログ
2006年3月15日

感覚で生きてる人間前の娘

1才の娘を背中にしょいながら書いてます。
やっと寝てくれました。首が落ちそうになりながら寝てます。痛くないのかなぁ。
先月1才の誕生日を迎えた娘は最近ますますお話をするようになりました。
といっても、何を言ってるかは全くわかりません。
動物の写真や絵を見ると「わんわん」というくらいです。
その様子を見ていて、先日知り合いに貸してもらった養老孟司先生の講演会CDの内容を思い出しました。
たとえば人間の言葉を習おうとするネコが仮にいたとして、「おまえはネコだよ」というセリフを夫と妻の両方が教えてやったとします。そうするとネコは二人が違うことを自分に教えたと判断するわけです。つまり夫と妻は声のトーンも口調もまったく違うので、ネコは違う音だと認識してしまうのです。これは感覚の世界で生きている動物全般に言えることです。
一方で、人間は概念の世界を持っています。どういうトーンでしゃべろうが、「ネコ」は同じネコなのです。言葉のもつ情報処理能力がなせる業です。それが行き過ぎると情報だけにとらわれて感覚を使うことを忘れます。3日前のサンマと今日釣ったサンマを並べると、ネコは迷わず今日のサンマを食べます。普通の人間は(プロを除いて)スーパーのシールの賞味期限を見ながら選びます。
(これは私の解釈も入ってますので、養老先生の講演の意図とはちょっと違うかもしれませんが、ご了承ください)
親は子どもが「わんわん」と言っているのを聞いてつい、「そう、わんわんね」とか「かわいいね」とか「それはニャーだよ」と言ってしまいがちですが、子どもがわざわざ「これはわんわんだ」と犬を見て言うでしょうか。そんな、「This is a pen」みたいな愚骨頂な話はないでしょう。たぶん何か興味を持ったもの(おそらくは目と口があって自分と話ができそうなもの)に対して話しかけている、と考えるのが自然なのではないでしょうか。それはもしかしたら大人が考える以上に複雑な感情で、それを表現する情報処理能力だけが大人より少ないだけなのかもしれません。
今の教育は「空は青い」と教え込むことに終始しているように感じます。乳幼児期に持っている豊かな感覚や感情をどんどん押さえ込み、代わりに情報処理能力を植えつけていく・・・
とてももったいないと思いながら、じゃあなんて話しかけてあげればいいのか、そこでまた悩んでしまいます。とにかく、よく子どもを観察して、その複雑な感覚を少しでも読み取ってあげればいいのかな。そっちのほうが、「そうわんわんね」より数倍も時間がとられるのですが、(何か別のことをしながらではできません)、そういう作業をきちんとした親子が絆が深くなるのかもしれません。


takさんご指摘ありがとう。
「愚骨頂」変換ミス、直しました。