おかみブログ

2007年2月7日

タイマグラばあちゃん

北杜市で『タイマグラばあちゃん』の上映会があります。
タイマグラ2

「タイマグラ」とよばれる岩手県早池峰山のふもと、水も電気もつい最近までない人里はなれた山奥で、自給自足しなから一人暮らしをしてきた向田マサヨさんの晩年を描いたドキュメンタリー映画です。
私はまだ見てませんし、この上映会も日程が合わず行けません。
だから以下の内容説明は単なる憶測です。
ばあちゃんは、ジャンヌ=ダルクのように国家を救ったとか、キュリー夫人のように大発見をしたとか、マザーテレサのように貧しい人に献身したとか、そんな偉業を成したわけではありません。
普通に、四季のうつろいのなかで、生活し続ける、それだけです。
それは変化と刺激に富んだ現代社会で暮らす私たちにとって、あまりにも平凡で退屈、かつ不便な生活のように見えます。
「ただ、生きる」
小泉堯史監督の『阿弥陀堂だより』は見ました。
淡々と、信州の雪深い山村・飯山での生活が描かれる中、樋口可南子演じる<妻>の「パニック障害」という病気と、彼女が都会の病院勤務に少しだけもどる期間があり、それが逆にこの映画にフィクションとしての客観性を持たせ、主人公夫婦の田舎暮らしがどっか別の世界ではないことを感じさせる重要なエッセンスになっていました。
映画の中で、お盆の送り火を見つめながら妻が「私たちも先祖になっていくのかしらね」というセリフが私は一番好きです。
この二つの映画が、別に不便な生活をしろとか、自給自足して暮らせ、などということを言ってるわけではないでしょう。
もっと根本的に、「ただ、生きる」ということを、考えるでもなく感じていけばいいんだと思います。
今の生活を変える必要もなければ、悟りをひらくものでもない。
きっと上映会場を出たとき、甲斐駒がひときわきれいに見えれば、それでOKなんだと思います。
そういう思い、したくないですか?
上映会案内は以下のとおり。
日程:2月17日(土) 13:30開場 14:00開演
会場:高根ふれあい交流ホール(北杜市高根総合支所西側)
料金;前売1000円 当日1200円

こんなサイトも見つけました。
タイマグラって?
http://www.taimagura.com/

2007年1月6日

江戸しぐさ継承考

正月明けは勤務先の社員が集まり、調布の深大寺にお参りにいくのが、仕事始めとなっています。
今年も行ってきました。
おみくじを引くと「大吉」!
さいさきがよいです。
いい気分で護摩焚き会場である元三大師堂へ。
護摩焚きの後のお坊様のお話が感動的でした。
江戸時代、民衆は相手を思いやる気持ちを尊重し、「粋に(生き生きと)」生活するための細かいルールを設けていました。
有名なのが
肩引き・・・狭い路地ですれ違うとき、お互いに肩を引いて道を譲り合うこと。
傘かしげ・・・同じように、お互いの傘を傾けて濡らさないように気を配ること。
うかつあやまり・・・混雑の中足を踏まれたときなど、踏まれたほうが先に謝ること。「こんなところに足をだしていてごめんなさい」
逆にタブーとして
刺し言葉・・・相手が一番触れて欲しくない痛い部分を突いて心にダメージを与えること。「(亭主に)ロクな稼ぎもないくせに」
江戸っ子は3代続いて初めて江戸っ子だそうです。
こういうルールを親から子、孫へ伝えることで本当に粋な江戸っ子になれるのだとか。
「継承」をとかく重荷に感じがちな現代日本人。
「子どもにお墓の心配までさせたくない」などのセリフがよく聞かれるようになりました。
でも、基本はこういうちょっとしたことだと思うのですけどね。
受け止めたあとで、自分が正しいと思うほうに微調整すれば、いいんじゃないかな。
・・・と感動と共に反省をしながら、深大寺温泉『ゆかり』で、黒いお湯につかってきました。
石浴室
『ゆかり』は床はウチと同じ十和田石、腰掛は黒御影を床に据え付けてありました。
↑注)これはウチの風呂です

2006年10月14日

お墓が倒れてる

先月末、甲府市のお寺で墓石18基が倒されているという事件が話題を呼びました。
明らかに人為的なもので、何かの悪意があってやったものと見られます。
今日仲間内の石材業者さんと話の中でその話題になり、苦笑いしながら彼はこう言いました。
「意外と石材業者関係のしわざだったりしてね。仕事取れないから腹いせとかさ。普通の人、お墓なんか気持ち悪いとかいって触らないじゃん。」
墓石(器物)損壊事件の謎解きはともかく、一般の人のお墓に対する忌み嫌いようには時々びっくりすることがあります。
田舎暮らし物件を探している人の中にすらこんな例があります。
古い民家物件。敷地内に建つ石の祠や塔。江戸時代の年号が朽ちかけた石にかすかに見て取れる。竹やぶの下でかなり傾いて、ひっそりと建つ。「あれ、お墓ですか?」と問われる。
「いいえ、あれは屋敷神さまです。でも敷地内にお墓があるところもありますよね。」と(ちょっとおどかしぎみに)説明すると、「え?!」とかなり引く。
その後物件の感想について返事がある。
買い物に近く、便利で、土地も広いし気に入っているが、唯一あの祠が・・・。「子供にもそんなの気持ち悪いからやめろって言われてるんです」
また別の例。広大な水田の一画のちょっと小高くなったところ。富士山・南アルプス・八ヶ岳が見渡せる絶景スポット。そこにあるのが集落墓地。車で横切りながら、「あそこ、いいわねー。お墓が建っててもったいないわー」
現況農地、里山の一画の眺めのいい土地。そのすぐ後ろに近所の家のお墓が数基建つ。「こんなのがあるって資料に書いてないですね。広告するにあたって、マイナスインフォメーションとして載せるべきなんじゃないですか。」
まぁこういうのは極端な例ですが、都会の人は一様に墓地を忌み嫌います。田舎の人ですら夜は墓地のそばを通りたくないという傾向があります。
確かに人気のない暗い夜道、墓地から恨みを抱えた犯罪者が出てきたらコワイですけど。
そういう状況を招くのも他ならぬ生きた人間だということを、日ごろ忘れているようです。

2006年7月16日

「子孫」は「こまご」

文部科学省の調査によると、漢字の読み書きの正答率が極めて低いものの中に、「子孫」があり、「こまご」と誤答する例が多いことがわかったそうです。
国立教育政策研究所の調査報告↓
http://www.nier.go.jp/kaihatsu/tokutei/H16/04002010000007001.pdf
他にもいろいろ「え?」と思うような結果があるので、これだけを取り上げるのもナンセンスですが、ニュースではこの件を強調していたので、特に気になりました。
「しそん」が読めない??小学校4年生が?
いまや幼稚園児でもけっこう難しい漢字やかけ算や英語が使えるというのに。
もちろん大人だって普段なじみのない漢字がかけないことはよくあります。
だけど、「子孫」ですよ?
たぶん「先祖」のほうが、「ご先祖」とふだん使ったりするでしょうからこれよりはマシな結果だろうと信じますが。
人類が脈々と続けてきた生の営みの基本となる言葉に、なじみがない、ということ自体が、かなりアブナイ世の中になってきた証拠ではないでしょうか。
おじいちゃん・ひいおじいちゃんは先祖で、自分の子供・孫は子孫というつながりを普段考えていないということなのでは。
こういうつながりが自分の中にきちんと落としこまれていないから、親が子供を虐待する、子供が親を殴るなどの犯罪があとをたたない。
考え過ぎかもしれませんけどね。
だからお墓参りをしなさい!
(と細木数子先生みたいになったりして)

2006年6月17日

京ことば、いずこ

京都に行ってきました。
京都で買い物をすると「おいでやす〜」「おおきに」と言ってもらえるのが楽しみです。
京都一番の繁華街、四条河原町交差点のまさに角に、なにやら老舗っぽい和菓子屋さんが。
四条河原町といえどもさすがにインターネットカフェやエクセルシオールコーヒーではその言葉は聞けなかったけど、ここなら!
でもやっぱり「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」でした。
残念。
今はどこへ行けば聞けるのでしょう。

2006年6月16日

有為無為の教え

「木を育てる文化(4/26)」執筆の元となった、長坂にセカンドハウスを持つよわい70超の方。
最近仕事でからみがあり、お話を伺う機会が増えました。
とにかく物知り&話好きな人で、時がたつのも忘れます。
昨日の話では「有為・無為」の言葉が出てきました。
共に仏教用語。
「有為」は「さまざまの因縁によって生じ、常に生滅し永続しないすべての物事・現象。(大辞林)」
「無為」は「因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないもの。すなわち、涅槃・真如といった仏教の絶対的真理のこと。(大辞林)」
理屈はわかりますが、本当に理解するには一生かかっても無理かも。
逆に、一生かかってそれを理解しようとすることに、人間は生かされているのかもしれません。
勝手な解釈で実例を求めてみました。
石は長い時が経っても形が変わりにくく、それゆえ人の供養のために使われてきましたが、それでも徐々に雨風で朽ちてはきます。墓石そのものは永続しない現象。
でも人を供養するために墓を建てようという心は永遠です。
その心が何もなくても永遠に引き継がれるなら墓石は要らない、ということになります。
ですが、人間はゲンキンなもので、何か拝む対象物がなければなかなか心を維持することはできません。だから墓石を建ててきたのでしょう。無為の心を有為の物質に託すのです。考えてみれば皮肉なハナシです。
「樹木葬」や「散骨」という埋葬方法が注目を浴びていますが、その行為自体は無為の心の現われですから、もちろん非難すべきではありません。
ただ、埋葬した遺族の次の世代になったときにちゃんとその心が引き継がれるか。
もちろん教育が行き届いていれば不可能ではないでしょう。
でもけっこうその場限りのことが多く、遺族ですら後になってとてもさびしい思いをすると聞きます。
まぁ樹木葬はいいかもしれません。木という対象物があって、それがどんどん伸びて「これがおじいちゃんの木よ」などと子や孫にひきつがれていく可能性はありますから。
ただ現実にはやたら人の山に木を植えるわけにはいかないし、自宅の庭だって、代々その土地が引き継いでいかれる世の中ではないし、難しいかもしれません。
墓地は個人の所有権ではなく、あくまで「墓地としてしか使ってはだめですよ」という使用権なので、存続性がかなりの確率で確保されています。そういう限られた土地では(特に日本のように国土が狭ければ)あまり形の変わらない石が、もっとも重宝された墓標素材だったわけです。
有為無為法からハナシがとびました。
無為にはもうひとつ、「あるがままにして作為しない」、「自然のまま、natural」という意味もあります。
ブログ説明にもあります、「無為自然の育児」はそういう思いを込めたものです。なかなか作為無しにはいきませんけどね。
さて、こんなハナシにつきあってくれた長坂の人は、これの5倍くらいご自分でも話をして、それを聞くのも楽しみと緊張の連続です。
私のおじいさんというにはまだ若い方ですが。

2006年4月26日

木を育てる文化

長坂町小荒間に「古杣川」という一級河川があります。
「ふるそまがわ」と読みます。
ある人からその意味を教えていただきました。
「そま」というのは国字で、国字というのはいわゆる日本人独自の発想で、漢字をアレンジしてつくった文字のこと。
国字には他にも「峠」とか「辻」などがあります。
ここまでは国字についての辞書の受け売り。
ここからは「杣」を教えてくれた人の「杣」についての受け売りです。
「杣」とは材木にするために木を植えた山のこと。
その材木をさす場合もあれば、そういう行為をさすこともある。
そもそも木を育てて材木にするという発想は日本にしかない。
材木にした後はまた植林して次の伐採を待つ。
漢字が生まれた中国には「杣」という概念はない。
伐ったら伐りっぱなし。
昔はそれでも使うほうが少なくてなんとかもっていたんだろうが、
近年伐採しすぎて砂漠化が進んでしまった。
だからこの前みたいに黄砂が・・・
少ない国土で資源を有効利用しようとする概念が昔から日本にはあったんですね。
木を伐りだした後流して運ぶ川を「杣川」といったんだそうで、小荒間の「古杣川」はそういう川だったんでしょう。しかも老舗の。
そういう業に携わる人のことを「杣人(そまびと)」といい、木こりもその中に入ります。
そまびと。いい響きです。
戦後八ヶ岳には成長の早いアカマツが大量に植えられました。早く資源化して、産業を盛り返さなければ、という行政の意図があったからです。
ですが、いまやそのアカマツはほとんど手入れされることもなく、延び放題。広域農道を敷設するからと林の真ん中だけどーんと伐採されてます。
そこを毎日すごい時速オーバーで通勤している私っていったい。
ちなみに「杣」を教えてくれたその人は、よわい70を越えます。
つい最近八ヶ岳にセカンドハウスを得、田舎暮らしを始められました。
風力発電を試みながら、最近は国字を初めいろんなことの研究を進めている、パワフルな人です。
次の世代へ残す財産。
環境、知恵、そして活力。

2006年4月17日

10年後の建物

仕事柄、別荘の中古物件を見ることがよくあります。
たまたま続けざまにログハウスを3件見ました。
どれも築10年以上経っているものです。
造りによって歴然と差が出るもんだ、と今回つくづく思いました。
いい素材は経年変化でいい赤茶色などに変化しているのに対して、安い素材はなんとなく痩せたようなくたびれた風合いになっています。
これは口ではなかなか説明できないのですが、素人目にもとにかく違うのです。
「なあんか、ちがう!」という居心地の良し悪し?感覚的なものです。
ログハウスは木を積み重ねて建てて行くシンプルな工法ですので、細部の加工が丁寧かどうかでも全体の感じが大きく左右されるみたいです。
無垢の木が動くことまで考えて時が経つ程になじんでくる家と、金物やコーキングで無理矢理調整している家とでは、やっぱり最終的には「居心地」の良し悪し。
いい無垢の家と新建材の家ではもっとはっきり差が出ます。
新建材は建てた瞬間から劣化の一途をたどります。
石油製品が経年変化で「いい風合い」になることはあり得ません。
加えて、時代のはやりすたりを直接受け、10年も前のものなど、間取も設備も使用材料も見るからに時代遅れになってしまいます。
そういう中途半端に昔の住宅を見ると、なんだかとてもせつない気持ちになってしまいます。
お墓は家よりもっと使用年数の長いものです。
しかも、ずっと雨風にさらされているので、環境は家より厳しいのです。
10年経つと石材自体の質と加工技術の良し悪しで、風合いが全く違います。
やはり質のよい石で、何度も丁寧に磨きをかけたお墓は10年たってもちゃんと艶があります。
外で見る時、艶の有る無しは気品に大きく左右します。
本物とニセモノの区別は、それに触れる機会がないとなかなか見る目が養えません。
同じダイヤモンドでも等級の差なんて、私にはついぞわかりません。
でもせめて衣食住にかかわることは、なるべく見る目を養いたいものです。
いつまでも飽きのこないもの。
それが結局は「ホンモノ」ってことなんじゃないかな。
そして環境にも人の心にも優しいものなのでしょう。

2006年3月21日

お彼岸考

今日春分の日、春のお彼岸です。
例年お彼岸前後、八ヶ岳にはドカ雪が降ります。
(といってもこのへんはせいぜい10cmですが)
そろそろ暖かくなって気を抜き出したころ、「まだまだ。一筋縄じゃいかないよ」とおてんとさまが片目をつぶっているかのようです。
今年はまだ降りません。気温は2,3日前とても低くなっていわゆる「寒の戻り」ってやつで、仕事のツメも重なって少々体調を崩してしまいました。
こういう季節の変わり目を「お彼岸」という日は象徴しています。
春分、秋分は科学的にいうと昼の時間と夜の時間が同じ日。これは世界中同様です。白夜の頃のフィンランドに行ったことがありますが、12時を過ぎてもうっすらと明るくて不思議な体験をしました。そのフィンランドでも今日は昼と夜の時間が同じということです。
仏教の世界では太陽が浄土のある真西に沈むことになぞらえて春分秋分の日前後に仏事を行います。「彼岸」は「三途の川の向こう岸」つまりあの世のことです。この日に、ご先祖があの世から里帰りをしにお墓へ帰ってくるとされています。だからお彼岸にはお墓参りをして先祖との再会を果たすのが勤めです。
私の中のイメージではお彼岸はあの世とこの世が通じ合う、SF的にいえば四次元のポイントが重なり合い、一瞬違う世界にワープする、そんな風に理解しています。
「暑さ寒さも彼岸まで」などと言いますが、暖かくなったり寒くなったりを繰り返しながら少しずつ春めいてくる、その折り返し地点なのでしょう。
ところで「おはぎ」「ぼたもち」は同じもので、秋の萩・春の牡丹になぞらえています。
これもよくよく見れば「ごはんだが餅だか、はっきりしろー」と言いたくなるような食べ物です。
夫の祖母が生きていた頃は毎年2回のお彼岸にどっさり「ぼたもち・おはぎ」を作って親戚中に配ってくれていました。石屋のおかみとして何十年も店を支えてきたおばあさんの、気合すら感じられました。
最近はみんな忙しくて、いちいちお彼岸にお墓参りに行く人も減ってしまいました。
何しろ「お墓いらない」などという意見が「個人主義」の一言でまかり通ってしまう世の中ですから。
私の勤める会社(不動産)も客商売なので祝日営業しています。
田舎暮らしを求めて物件を探しに来る人はせめて心の中だけでも先祖の墓参をしていただきたいものです。
ウチも子どもと一緒に今日はお義父さんのお墓に行きます。お墓風景村山東割